書けないことへの漠然とした恐怖 全くブログが更新できておらず申し訳なさを感じている。 いや、誰に対して? という話であるが。 なんだかんだ最近、読書と書く時間がなかなか取れない。仕事やプライベートが忙しいせいもあるし、小説を書いているからというのもあるが、まとまった文章を書く気力のようなものが削がれているような気もする。そしてそれが一番怖いことだ。何故怖いのか、何を恐れているのか、それはある程度書いたことのある人にしか分からないかもしれないが、ともあれ文章を書く気力の低下に反比例して漠然と書きたいこと自体は増えていく。 積読ならぬ積ブログ状態である。 そんなわけで、ある程度まとまった内容は今後もブログに書いていきたいのだが、リハビリもかねてまとまっていない漠然とした内容をnoteに書くいて整理していくことにした。以下がそのURLとなる。 note.com 書き方はブログとは変えているので違
0.はじめに 1.恋愛工学とは何か 2.現代の「オリエンタリズム」 0.はじめに 今回の記事は、前回の記事の内容についてより具体的に言及していくことにする。 まず、前回の内容を振り返ろう。 前回の記事では、「役に立つ学問」の何が問題なのかについて「支配」という概念を通して整理した。(下記参照↓) tatsumi-kyotaro.hatenablog.com 「支配」とは徹底された一種の管理方法のことである。 そして、全く未知のものは支配することができない。 よって、適切な管理にはマニュアルと、それを作るだけの知識が必要になる。 つまり、支配の条件はその支配対象を熟知することにあった。 多くの場合、支配の前段階には支配対象を深く洞察し定義しようとする過程が現れるわけである。 そして、学問も対象を深く洞察し定義付ける体系的知識が集合する場である。 そのため、支配までの過程が学問の皮を被って現れ
This webpage was generated by the domain owner using Sedo Domain Parking. Disclaimer: Sedo maintains no relationship with third party advertisers. Reference to any specific service or trade mark is not controlled by Sedo nor does it constitute or imply its association, endorsement or recommendation.
英語版記事を日本語へ機械翻訳したバージョン(Google翻訳)。 万が一翻訳の手がかりとして機械翻訳を用いた場合、翻訳者は必ず翻訳元原文を参照して機械翻訳の誤りを訂正し、正確な翻訳にしなければなりません。これが成されていない場合、記事は削除の方針G-3に基づき、削除される可能性があります。 信頼性が低いまたは低品質な文章を翻訳しないでください。もし可能ならば、文章を他言語版記事に示された文献で正しいかどうかを確認してください。 履歴継承を行うため、要約欄に翻訳元となった記事のページ名・版について記述する必要があります。記述方法については、Wikipedia:翻訳のガイドライン#要約欄への記入を参照ください。 翻訳後、{{翻訳告知|en|Metrosexual|…}}をノートに追加することもできます。 Wikipedia:翻訳のガイドラインに、より詳細な翻訳の手順・指針についての説明がありま
1.これまでのあらすじ 2.健全な議論による社会の変革に期待すべきか 3.これからの論点について 1.これまでのあらすじ ネットでは基本的に、議論は議論ゲームへと変更されるように力が働く。それは、社会的弱者や、マイノリティの主張を相対化し弱める力である。 つまり、議論ゲームでは弱者やマイノリティの意見は取るに足らないものとして力を削がれてしまうというのがこれまでの主旨であった(前回までの記事↓) tatsumi-kyotaro.hatenablog.com tatsumi-kyotaro.hatenablog.com tatsumi-kyotaro.hatenablog.com tatsumi-kyotaro.hatenablog.com この様な議論ゲームの力の働き、力場を利用し、自分達に優位になるように議論ゲームを展開することにある種の卑劣さを感じる人も多いことだろう。事実、ネットの議
� et al Declining Significance of Gender? et al � � �� � � � � � � �� � � � � � � � � � �� � � � �� �� � � � � � � � � � � � � � ��� � ��� � � � �� � � � �� ��� ��� � � �� ��� � � � � � � �� �� � � � � � � ��� ��� �� � �� � � �� ��� � � � � �� ��� � � � � ��� � � �� � � � � � � � � � � � � � � � � � �� � � � � � � �� � �� � �� �� � � � � �� �� � � � � �� �� � � ��� ��� � �� � � � � � �� ��� �� � �
1.前回までのあらすじ 2.議論ゲームでフリーライダー側は勝利しなくても良い 3.議論ゲームの不利は覆せるか? 4.今、私たちに何が出来るのか 1.前回までのあらすじ 前回まで記事で、ネット上の議論ゲームではマイノリティ側が勝利を収める事は非常に困難であると結論付けた(↓下記参照)。 tatsumi-kyotaro.hatenablog.com tatsumi-kyotaro.hatenablog.com tatsumi-kyotaro.hatenablog.com まず、前回までの記事の内容を軽くまとめよう。 前回までの記事で、ネットの議論ゲームにおいて、社会的弱者が圧倒的に不利な状況に置かれる事を確認した。その理由は、社会的弱者側にとってネットの空間が、質問に晒される記者会見的空間になってしまっているからであるという説明も加えた。 問題提起側は、現状に問題点を発見して、それに対する改善
Type your search terms above and press return to see the search results. 400年も500年も昔の美術作品を調べていると、ときどき21世紀人から見るとぎょっとするような主題のものがある。 パッと思いつく限りでも、ギリシャ・ローマ神話には「それって女性側からしたらどうなん?」となるような話が満載だし(テセウスに捨てられるアリアドネとか、ゼウスに犯されるエウロパとかレダとか)、キリスト教主題だって自分らの父親を誘惑する娘たちってどうなのってなるし(ロトと娘たち)、世俗主題でも純潔を汚された乙女が自殺するのが美談になってるし(ルクレティア)。それが絵やら彫刻やらであらわされて、当時の文献で「まことに美しい」とか書かれていたら、そりゃ絵はそうやろけどこれ相当ヤバい話やで? みたいになりますわな、こちとら21世紀人なんで…。 現
これはわたしの観測範囲の問題かもしれないんですけど、最近のインターネットを見ていてよく思うのが、「マジョリティである」と認識することの難しさです。 ひとはいろんな属性を同時に持っているので、ある場面ではマジョリティだけど別の場面ではマイノリティである、といったことはあります。 でも、それがわからない人がすごく多い気がする。ある文脈ではマジョリティになっているにも関わらず、自分のことをいついかなる時も絶対マイノリティだと思っていて、批判されると「また口をふさがれた」みたいな被害者意識を強めてしまう、みたいな光景をめちゃくちゃよく見る。その被害者意識が攻撃に転じる。で、すでに抑圧されている人をさらに傷つけてしまう。そういう、最悪な負の連鎖があらゆるところで起きている気がする。 多分それって「マジョリティである」と認識すること、それにまつわるあれこれを引き受けることが本当に難しいからっていうのも
松浦氏もこれをリツイートしています。 しかし、一連の議論はそもそも事実なのでしょうか? 野党批判のために持ち出された「女湯の利用拒否が差別」への疑問結論から言えば、野党が提出しているLGBT差別解消法案に関する議論において「手術を受けていないトランスジェンダー女性の女湯からの排除が差別である」なんて話はそもそも出ていないのです。 また差別に対する罰則も設けられていません。「男性器のある人を女湯に入れるのを拒んだら罰せられる」というフィフィ氏のツイートは、二重の意味でミスリードとなります。 この議論は二つの方向から行うことができます。 一つは、LGBT差別解消法案の文章を読み解くアプローチです。 法案を読めば、「差別したら罰せられる」との議論が事実無根であることが分かりますし、事業者に求められている内容もわかります。 現在の野党案が事業者(企業など)に求めているのは、「性的指向または性自認に
日本の左派やリベラル派はよく仲間割れしていると言われますし、実際ちょくちょくそれが目につきますが、これは何故なのでしょうか? 他でもよく似たようなことが言われますが、それはそもそも「左派」と呼ばれる集団は、元々まとまった一つの集団ではなく、言ってみれば「右派ではない」集団の総称だからだと思います。 つまり「右派」というのは、その国の主流派、または伝統的なやり方に適応した人々のことであり、それに適応していない人々の集団がまとめて「左派」と呼ばれているのであって、 実際には民族的マイノリティの集団、性的マイノリティの集団、宗教的マイノリティの集団、またそれとは別に単純に政治的に左派である人々など、それぞれ異なった背景と思想を持った集団の集まりなのだろうと思います。(さらに、これらの集団の間でも細かい違いがある)もちろん、マイノリティだからといって左派とは限りませんが。 ですから、その諸集団の間
差別と同化(ユダヤ人を中心に) 松村 治 『ユダヤ人ゲットー』(大澤武男著)からヨーロッパ社会ではユダヤ人に対するひどい差別の歴史があることを知った。ディアスポラ以来のユダヤ人差別の長い歴史の中で18世紀に始まったユダヤ人のドイツ社会への同化への動きに注目してみると、同化の過程で,ユダヤ人の世界が拡大する一方、アイデンティティの喪失の問題や、同化が進むことによりさらに大きな偏見が生まれるというように様々な変化があったことがわかる。 ユダヤ人の差別は1つの社会の中でのマイノリティに対する差別の典型であり、ユダヤ人がその差別にどのように対処しようとしたか、また彼らに対してマジョリティの側はどのような態度をとったかをその歴史の流れの中でみていくことは差別の問題を考える上で大変重要である。今の日本の社会もマイノリティに対する差別の問題とは無縁ではなく、在日朝鮮人の差別問題など私たち自身の問題として
《a ~》出版{しゅっぱん}・報道{ほうどう}の自由{じゆう}、〔政府{せいふ}などによる〕コントロールを受けない報道{ほうどう}(機関{きかん})◆【参考】have a free press ・A free press is essential to democracy. : 報道の自由{じゆう}は、民主主義{みんしゅ しゅぎ}にとって不可欠{ふかけつ}です。
性社会・文化史(ジェンダー/セクシュアリティの歴史)の研究者としての活動、研究成果の一端、トランスジェンダーとしての日常と関心事を記していこうと思います。 10月19日(金) 少し前に日本における「性同一性障害の人の割合」について考えた。 http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2012-10-07-4 その結果、日本ではFtM(Female to Male)が諸外国に比べてかなり多いことを指摘した。 今回は、その理由(数字的あと付け)を考えてみた。 日本の女性人口を6448万人とする。 そして、その3%が女性同性愛者(レズビアン)であるとすると、レズビアンの人数は193万人いることになる。 ただ、日本社会の現状では相当数が潜在化していると思われる。 仮に顕在化率を3分の1と考えると(根拠なし)64.5万人となる。 本来の性同一性障害の人(FtM
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く