鴻門の会の様子を描いた壁画鴻門の会(こうもんのかい, 中国語: 鸿门宴)は、紀元前206年、楚の項羽と漢の劉邦が、秦の都咸陽郊外(現在の陝西省西安市臨潼区)で会見した故事。楚漢の攻防の端緒となった。 紀元前207年、倒秦に立ち上がった楚の懐王は関中を初めに平定したものを関中の王とすると諸将に約束した。懐王は、項羽らを趙の救援後に函谷関より関中へ進軍するよう北上させ、一方劉邦(当時は沛公)には南方ルートの武関より関中へ進軍するよう命じた。命を受けた劉邦は軍を進めて秦軍と戦った。一方、秦の宰相である趙高は、二世皇帝を殺害し、関中を二分しようと提案してきた。劉邦はこれを謀略と断じ、張良の建策に従って秦の将軍を買収し、武関を攻略。関中に侵入し秦軍を撃破した。その際に秦王の子嬰が降伏し、劉邦は遂に軍を率いて秦都咸陽へ入る。 この時項羽はまだ関中に至っていなかった。劉邦に後れて函谷関に至った項羽は、関
京劇の仮面 項 羽(こう う、Xiàng Yǔ、紀元前232年 - 紀元前202年)は、秦末期の楚の武将。姓は項、名は籍、字が羽である[注 1]。以下、一般に知られている項羽の名で記す[1][注 2]。 秦に対する造反軍の中核となり秦を滅ぼし、一時西楚の覇王[注 3](在位紀元前206年 - 紀元前202年)と号した。その後、天下を劉邦と争い(楚漢戦争)、当初は圧倒的に優勢であったが、次第に劣勢となって敗死した。 項羽は中国の歴史上最も勇猛といわれる将で、史家李晚芳は「羽之神勇、万古無二」といい、「覇王」という言葉は通常項羽を指す。 項氏は代々楚の将軍を務めた家柄であり、項羽の祖父は楚の将軍項燕である。『史記』では本籍を下相としている。叔父の項梁に養われていた。 『史記』によれば、項羽は読書をしたがよくできず[注 4]、剣術を習ってもあまり上達しなかった。項梁はそのことで項羽を怒ったが、項
劉 邦(りゅう ほう、簡体字中国語: 刘邦、拼音: Liú Bāng)は、前漢の初代皇帝。 沛県の亭長(亭とは当時一定距離ごとに置かれていた宿舎のこと)であったが、反秦連合に参加した後に秦の都咸陽を陥落させ、一時は関中を支配下に入れた。その後項羽によって西方の漢中へ左遷され漢王となるも、東進して垓下に項羽を討ち、前漢を興した。正式には廟号が太祖(たいそ)、諡号が高皇帝(こうこうてい)であるが、通常は高祖(こうそ)と呼ばれることが多い。 戦国時代末期に楚の領域だった泗水郡沛県豊邑中陽里(現在の江蘇省徐州市豊県)で、父の劉太公と母の劉媼の間の男児として誕生した[3]。長兄に劉伯、次兄に劉喜が、異母弟に劉交がいる。『史記』によれば劉媼が劉邦を出産する前、沢の側でうたた寝をしていると、夢の中で神に逢い、劉太公は劉媼の上に龍が乗っている姿を見た。その夢の後に劉邦が生まれたという[4]。また、諱の「邦
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