ハッヒフッヘホー。アンパンマン、腐敗と発酵の違いを知っているか?」 大体このへんから始まった、一連のおしゃべりをまとめた。 バイキンマンからこんな問いを投げかけられて、アンパンマンはたぶん、 答えを見つけられないはず。正義というのは本来、「悪役」なしには存在できないから。 妄想:アンパンマンは山の神様だった 原作だとこのあたりは、アンパンマンの本体は、ジャムおじさんのパン種に飛び込んできた星みたいな何かで、 バイキンマンは異星人だけれど、このあたりはあくまでも、人間の側から見た事実。 ここにこんな設定を持ち込むと、物語の意味が大きく変わって面白い。 「アンパンマンとバイキンマンは元は同類の存在であったが、片方はイースト菌で食用に、もう片方は雑菌が繁殖し出来損ないとして廃棄された」 焼かれる前のアンパンマンとバイキンマンは、山の中に「パン種」として存在して、 ジャムおじさんの介入を受けること
<放映中:2004年製作:テレビ東京> 「((注)):ここから先は、ひたすらファフナーの悪口が書かれています。ファフナーが好きな方は、この先をお読みにならないことをお勧めします」 はっきり言って、反吐が出るほど嫌いな作品。これほど裏切り、命令違反、敵前逃亡、無抵抗降伏などを肯定的に表現したアニメを、私は見たことがありません。脚本家はかなり有名な作家のようですが、正直全く興味を持てないんで。方法論的にはエヴァやラーゼフォンをパクっていると言われているようですが、目指している方向性は180度逆。きっと脚本家は、Ζガンダムに出てくる組織を見て「リアルだ」とか感じちゃう人なんだろうな。まず軍隊という面から言えば、敵の偵察機を(最重要情報を取られた上に)「殺しちゃかわいそう」という理由で逃がしてあげたパイロットがお咎めなしなんて、お前には本当に人類の危機という自覚があるのかと(脚本家を)問い詰めてや
ガンダムって戦車や戦闘機と同じ戦争の道具ですよね?人殺しの道具ですよね?なのにいい大人がかっこいいだのなんだのいいながら自分の子には戦争なんていけないことなんだよ愚かなことなんだよと教える。 いい歳した芸能人もそう。機動戦士ガンダムじゃなくて殺人兵器ガンダムですよね?じゃあ機動戦士原子爆弾ってかっこいいですか?ガンダムなんかより全然強いですよ?同じように共感できる方っていますか?最近は戦争抑止のガンダムとかもでてきてるようですけどね! 補足 ガンダムが好きな人=戦争好きですよ。だって愛する奥さんや子どもがいるジオン軍の兵士がガンダムに殺されてもああやられちゃったねーくらいにしか思えない人ばっかりなんだから。 「ガンダムって戦車や戦闘機と同じ戦争の道具ですよね?人殺しの道具ですよね?なの...」 この質問、おもしろいなあ。 たしかに質問のかたちになっていないし、論理展開もめちゃくちゃなのだが
アニメ界の巨匠・富野由悠季が10年ぶりに放つ劇場作品『∀ガンダム』。テレビアニメ全50話を『I 地球光』&『II 月光蝶』の前後編に再構成した超大作だ。この合計4時間超の一大SF叙事詩は、いったいどのような過程を経て編集されたのか、そして富野監督が考える映画の本質とは? アニメファンならずとも気になるあんな話やこんな話を、富野監督から直接聞きだしてきちゃいました。読んでから観るもよし、観てから読むもよし。このインタビューで、劇場版『∀ガンダム』がさらにおもしろくなること間違いナシ! --いよいよ劇場版『∀ガンダム』の公開が近づいてきましたが、2000年の東京国際ファンタスティック映画祭で『∀ガンダム』の映画をやるぞ、という話をされてから現在まで、だいぶ時間が経ってますが、その間には何があったんでしょう? 富野監督(以下 富野): まぁ実際の作業に時間がかかっていただけですよ。どのフィルムか
ヒーローの役目とはいったい何であろうか? ヒーローとは力を持つ者のことであり、その力をどのように使うのかが問題となる。ヒーローには普通の人にはできないことが期待される。そのため、ヒーローはしばしば悪の存在と闘う。しかし、悪の存在とはいったい何なのか? いったいそこで問題となっている悪とはどのような種類の悪なのか? その存在が悪だからそいつは悪だと言っただけでは同語反復である。ヒーローものの作品で悪と見なされているものたちのことをもう少しよく考えてみる必要がある。 例えば、『ウルトラマン』に出てくる怪獣たちは、悪の存在なのだろうか? 『ウルトラマン』に登場する怪獣たちは、知性を持った宇宙人を別にすると、どこか動物的なところがある。怪獣たちがビルや家などを破壊したとしても、それは、怪獣たちが人間に悪意を持っているからでは必ずしもないだろう(元々は人間であり、政治的な戦略のせいで遠い惑星に置き去
よしなしごと。 伊藤計劃のMGS4のノベライズは、一種の覚悟を前提に書かれているものだなと思った。いっそ悲痛とすら云える。オールド・スネークと作者の姿が被って仕方ない。 KABUMEIという謎の格闘技を研究するコミュに誘われた。捏造力が大いに問われる。 なぜぼくらは歴史を捏造したがるのか、という内的動機については、いずれ掘り下げて語りたい。 社会の不正や矛盾を言説あるいは運動で打破していこうとする運動者たちは、必ずしも他者から見て適切な位置に自らをアンガージュマンさせているとは限らない。というか、大抵批判の余地があり、誠実な人間であるほど「自分はもっと重要な問題に、より深くコミットメントし、自らを投げ込まなければならないのではないか」との疑問を持ち、それを晴らすために「なぜそこに」「なぜ自分が」アンガージュマンしているか、という普遍的根拠を求めようとする。だが、その問いは不可能性の荒野につ
あまり纏めた感想ではないのですが、一応昨日の記事に対する小感。 大森氏の言うとおり、『∀』はいろいろ余裕が出てる作品だと思う。 ”自然体”と形容してもいいが、”正義”と”悪”という概念がないと言ってるいいが、 とにかく『ブレン』以降の富野作品では、『V』以前と違う雰囲気が漂ってる。 で、僕は大森氏の話を聞いて、なるほどなと思ったのは、 「そっか、正義と悪を感じさせないという自然体こそ白富野の作風だったんだ。」ということ。 考えてみれば、富野作品のなかでは、正義と悪こそ曖昧なものの、 やはり主義とか理想とかという形で劇中に出てきます。 そういう衝突は人の本音や本能を加えれば、富野節の出来上がりですし、 富野作品のカタルシスの所在だと思います。 でも、白富野にそれらはほとんど存在しません。あるのは人の都合だけ。 それこそ白富野の真意で、人死ぬか死なないかの問題ではありません。 富野のプロットや
興味深かったのでメモ。 人は不合理、非論理、利己的です 気にすることなく、人を愛しなさい あなたが善を行なうと、 利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう 気にすることなく、善を行ないなさい 目的を達しようとするとき 邪魔立てする人に出会うでしょう 気にすることなく、やり遂げなさい 善い行ないをしても、 おそらく次の日には忘れられるでしょう 気にすることなく、し続けなさい あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう 気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう 気にすることなく、作り続けなさい 助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう 気にすることなく、助け続けなさい あなたの中の最良のものを、世に与えなさい けり返されるかもしれません でも、気にすることなく、最良のものを与え続けなさい
魔王さまの「よつばと!」エントリのコメント欄に書き込んだものの再掲。 魔王さまへ。そもそも日常というのが「変わらないように見えて少しずつ変わっていく不可逆性のもの」であるということは指摘しておきたいです。不変で幸福な日々ってのは、いわゆる「えいえん」です。サザエさんの世界、といいかえてもいいかも。ぼくらは同じ時間を反復して生きているのではなく、反復的なテンポで流れていく不可逆的な時間の流れに乗っているのです。そこが「日常」を「不変」と認識させる要素なのですが。 のでまあ「日常」を書くことと「変化」「不可逆性」を書くこととは矛盾しないのです。つか、そこで矛盾してしまうと「よつばと!」という作品が成り立たなくなります。「よつばと!」は、時の流れをあえて表現することにより、「日常」を観念から現実に近い側に引き寄せて表現した作品といえるんじゃないかな、と。 追記。「かわらないまいにち」というフレー
前回は、競争的関係と家族的関係とを対立させることによって、いくつかのサブカルチャー作品において問題になっていることを整理してみた。今日のサブカルチャー作品で問題になっていることを端的に述べれば、それは、未だに失われたことのない故郷を再発見することだと言えるかも知れない。一度喪失してしまった故郷に再び戻るということが問題なのではなく、失われたことなど一度もない故郷に戻ることが問題となっているのである。それは、言い換えれば、家族の発見であったり、家の発見であったりするだろう。しかしながら、そこでの家や家族というものは、失われたものとしてではなく、理想的な場所として、探求の対象となっていると言える。 他者との敵対的な対立が無化される場所。これは理想的な場所ではないだろうか? 『吉永さん家のガーゴイル』に見出すことができるもの、それは、一種の許しではないだろうか? いったい、何が許されるのかという
ドメイン差し押さえが報じられている2ちゃんねるであるが、2ちゃんねらーが様々な騒動を起こすとき、そこには「正義に基づく暴走」がみられるように思う。 彼らは、正義の旗の下に「悪人」を糾弾し、正義の旗の下に「善意」を喧伝する。今なお続くmixi乗っ取り犯による自己正当化の発言を見ている限り、彼らはあくまでも自分たちの行動が正しく、それに反するものをすべて敵と見なす。 自分たちは正義である――だから何をやっても正しい、逆らう奴が悪い。そんな意識が2ちゃんねらーには見え隠れしている、と私は感じている。 (ここで言う「2ちゃんねらー」の定義は後述する) ■悪意と善意 【磨】毎日新聞「ネット君臨」考-ITニュース:イザ! 毎日新聞の記事「ネット君臨」に対する反論として、産経新聞のコラムはこう書いている。 記事では「ネットでは住人たちが一つの話題に群がり、ときに『悪意』が燃えさかる。彼らはそれを『祭り』
それは、xx-internetさん。面白いことをするなあ。 何かの間違いなのか全てお見通しなのか高級なギャグなのか見当もつかないけど、私は「影武者徳川家康」と「一夢庵風流記」と「捨て童子松平忠輝」は読んでいて、どの作品もかなり好きだ。だから悪い気はしない。 というか、マッチポンプ的に続きとして書こうとしていたことがあって、そこににつながってしまうので、とても驚いた。だから、このエントリの本文には、ほぼ予定どおりの内容を書くけど、タイトルは上記のように変更した。 私が理系文系という言葉で煽るのは、文系がサボっていると思うからだ。具体的に言えば、文学、政治、哲学、芸術、宗教、心理学等から、「悪」という概念がスッポリ抜け落ちていると思う。「悪」についてきちんと考えないなら文系の存在価値はないような気がする。 グーグルのやってることをちょっと延長すると、「悪」についてかなり明確な定義ができる。たと
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