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真理に関するpolynityのブックマーク (2)

  • 恐山あれこれ日記: 「虚無」を超えて

    「虚無」を超えて 最近仏教に興味を持ち始めたという若い人に質問されました。 「仏教の無常とか無我とかいう教えを突き詰めると、確実な根拠を設定して発言することは錯覚にすぎない、ということになりませんか? すると、無常と無我という考え方自体も錯覚になりませんか? そうだとすれば、これはただのニヒリズムではありませんか?」 私の返答。 「無条件かつ絶対に確実な根拠に基づいて正しいと判断された物事や考え」、これを仮に「真理」とすれば、私が考える仏教の立場からすれば、その一切が完全に錯覚です。もし「無常」や「無我」も「真理」として主張されるなら、当然、錯覚にすぎません。「真理」の主張とは、実際には、発言者の依拠する立場と信念の正当性を、主張しているにすぎません。 ときどき、「仏教とは(宗教ではなく)科学である」というような、実に無意味な主張がされますが、仏教にも科学にも「真理」と考えられるべきいわれ

  • 恐山あれこれ日記: 思い出す言葉

    思い出す言葉 今夜、台風接近。恐山、大嵐。叩きつけるような雨と風の音を聞きながら、思い出す老僧(師匠の師匠にあたる)の言葉など。 「こうして見ると、写真というのは、みんな遺影だな。写っとるわしは、もうおらん」 ある寺院の法要にお供して、初めて一緒に撮ってもらった写真を届けたときの言葉。久しぶりに「無常」という言葉に強烈なリアリティを感じたものです。 「口あれば糊(のり)あり、肩あれば衣(え)あり。坊主はそう思って生きるのだ」 私の修行道場時代、これから一人前の僧侶として、実際やっていけるのかどうかという頃にもらった手紙の一節。僧侶が真面目に一途に修行する限り、飢え死にしない程度のべ物は必ずあるし、凍え死にしないほどの着物は手に入る、という意味です。 「馬鹿者は批判されると、すぐに怒る。利口者は批判されると、まずは考える」 老僧もその昔は、歯に衣着せぬ論客で鳴らした人でした。30代そこそこ

    polynity
    polynity 2009/10/30
    第三定理の系。「ある人の頭脳の程度を知りたいときは、その人を批判してみればよい」
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