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論理と哲学に関するomega314のブックマーク (54)

  • 哲学的視点からの直観主義論理入門 [前編]

    古典命題/述語論理の証明論・モデル論や、健全性・完全性定理に多少触れたことがないと理解できない可能性が高いです。 また、哲学に関する前提知識は必要ありません(おそらく)。 分かっている人向けの説明 「金子先生や大西先生の文献を追いながら、ダメットの反実在論に関する議論をざっくり整理してスッキリしたい」という気持ちに突き動かされて書いた個人的なメモを、他人に見せられるように整形・拡張したものです。今年言語哲学について学んだことのメモにもなっています。 直観主義論理とはまず、今回のテーマである直観主義論理についての説明をしておきたいと思います(すでにご存じの方は次章に移ってくださって構いません)。いわゆる普通の論理学の体系、古典論理(classical logic)についての知識は前提としているので、知らない方は色々調べて見てください。 さて、直観主義論理を非常に簡単に説明するなら、古典論理の

    哲学的視点からの直観主義論理入門 [前編]
  • 不完全性定理

    ver.2022.05.26:文章を色々と変更・修正。数学歴史についての内容は変っていない。数式を MathJax で表示するように変更。インライン要素の前後に意図せぬ空白が入っていたのを修正。 1. 不完全性定理理解の第一歩に向けて…このテキストの内容の説明 このテキストでは、1931年にクルト・ゲーデルが発表した数学の定理である不完全性定理の理解への第一歩として、なるべく数式を使わない説明を行う。不完全性定理には第一不完全性定理と第二不完全性定理のふたつがあるが、最初、物理学の万物の理論とのアナロジーを使って、第一不完全性定理がどんな定理なのかを説明し(第2-8節)、その後で第二不完全性定理の説明、および、第一不完全性定理と第二不完全性定理が生まれた歴史的背景について説明する(第9-15節)。そして、最後にこの定理の人類の知の歴史における位置付けを行う(第16節)。 このテキストでは

  • Zero's World: Taxonomy - 類似性と「みにくいアヒルの子の定理」

    類似性と「みにくいアヒルの子の定理」 小野山 敬一 1.はじめに 類似性 similarity は対象間の関係を見るひとつの方法であり,しばしば分類における基準となるもので,それによって事物のグルーピングが行なわれたりするものである.一方,「みにくいアヒルの子の定理」(the theorem of the ugly duckling)は,形質を同等に評価した場合には類似性にもとづく分類がありえないこと,したがって客観的な分類がありえないことを示すものと解釈されている. 「みにくいアヒルの子の定理」はWatanabeが1961年にAAAS annual meetingで言及し,1962年ブラッセルでの講演で厳密な証明を与えた.後者はWatanabe (1965) に収録されている.その後,渡辺自身は,Watanabe (1969) や渡辺(1978,1986)で取り上げているが,他の著者が言

  • 生まれることは悪いことか? では産むことは? 【特別対談】川上未映子×永井均 反出生主義は可能か〜シオラン、べネター、善百合子|Web河出

    対談 単行 - 日文学 生まれることは悪いことか? では産むことは? 【特別対談】川上未映子×永井均 反出生主義は可能か〜シオラン、べネター、善百合子 川上未映子 永井均 2020.05.22 昨年、毎日出版文化賞(文学・芸術部門)を受賞し、この春に英訳が刊行され、The New York Timesをはじめ、The New Yorker、VOGUE といった主要メディアに書評やインタビューが掲載されるなど、海外でも大きな話題になっている川上未映子さんの『夏物語』(文藝春秋・刊)。この作品を巡って行われた、初の総特集「文藝別冊  川上未映子」掲載の永井均さんとの対談を公開します。 なお、この対談の参考として「文學界」2019年8月号に掲載された、永井均さんの「善百合子の主張」も特別掲載いたします。ぜひこちらもご一読ください。 *** 川上 今日のイベントは永井先生と「反出生主義は可能

    生まれることは悪いことか? では産むことは? 【特別対談】川上未映子×永井均 反出生主義は可能か〜シオラン、べネター、善百合子|Web河出
  • 鶏が先か、卵が先か - Wikipedia

    14世紀の『健康全書』の挿絵 「鶏が先か、卵が先か」(にわとりがさきか、たまごがさきか)という因果性のジレンマは、平たく言えば「ニワトリとタマゴのどちらが先にできたのか」という問題である。昔の哲学者にとってこの疑問は、生命とこの世界全体がどのように始まったのかという疑問に行き着くものだった[1]。 教養的な文脈で「鶏が先か、卵が先か」と述べるとき、それは互いに循環する原因と結果の端緒を同定しようとする無益さを指摘しているのである。その観点には、この問いが持つ最も根源的な性質が横たわっている。文字通りの解答はある意味明白であり、初めて鶏の卵を産んだ鶏以外の一個体(またはその卵の父親を含む二個体)が鶏の存在を規定したと言える。しかしメタファーとしての視点に立つと、この問いはジレンマにつながる形而上学的問題をはらんでいる。そのメタファーとしての意味をよりよく理解するために、問いは次のように言い換

    鶏が先か、卵が先か - Wikipedia
  • 神の存在証明 - Wikipedia

    この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。 そのため、中立的でない偏った観点から記事が構成されているおそれがあり、場合によっては記事の修正が必要です。議論はノートを参照してください。 (2019年8月) この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。 問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2019年8月) 神の存在証明(かみのそんざいしょうめい、英語:Existence of God)とは、主として(少なくとも、西欧哲学でこの言葉を使うときは)、中世哲学における理性による、神の存在の根拠の提示の試行を意味する。中世以前では、神の存在は自明と考えられていたが、『神学大全』の著者トマス・アクィナスは、「神は、自然なる理性においても、その存在や超越的属性が論証可能な存在である」と主張した。このように神の存在を、

  • 直観 - Wikipedia

    直観(ちょっかん、英語: intuition)とは、知識の持ち主が熟知している知の領域で持つ、推論、類推など論理操作を差し挾まない直接的かつ即時的な認識の形式である。 なお、日語の直観(ちょっかん)は、仏教用語の「प्रज्ञा(プラジュニャー、般若)」の訳語の一つである直観智に由来する。直観智は分析的な理解である分別智に対する直接的かつ質的な理解を指し、無分別智とも呼ばれる。また、整理整頓などでも洞察力や判断力よりも直観を必要とされることが多い。 直感とは感覚的に物事を感じとることで、勘(で答える)のような日常会話での用語を指すが、直観は、合理的かつ分析的な思考の結果に概念化された知識の実体が論理的に介在する(すなわち思考や、概念という仲介物が知識の持ち主と対象の間に論理的に置かれる)ようなすべての知識の形式、とは異なっている。 パースの言うアブダクションという仮説形成の操作にも直観

  • イマヌエル・カント - Wikipedia

    イマヌエル・カント(Immanuel Kant ドイツ語: [ɪˈmaːnu̯eːl ˈkant, -nu̯ɛl -]、当て字は「韓圖」[1]、1724年4月22日 - 1804年2月12日)は、プロイセン王国の哲学者であり、ケーニヒスベルク大学の哲学教授である。 『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらした。 イマヌエル・カントは1724年、東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)で馬具職人の第四子として生まれた。生涯のほとんどをその地で過ごしそこで没した。両親はルター派の敬虔主義を信仰していた。1732年、敬虔派宿泊施設であるフリードリヒ校に通学し始める。当校ではラテン語教育が重視されたほか、哲学は正規授業としてあり、ヴォルフ派の哲学が教えられていた。174

    イマヌエル・カント - Wikipedia
  • 定言命法 - Wikipedia

    定言命法[1](ていげんめいほう、独: Kategorischer Imperativ[2]、英: categorical imperative)とは、カント倫理学における根的な原理であり、無条件に「~せよ」と命じる絶対的命法である[3]。 定言的命令(ていげんてきめいれい)とも言う。『人倫の形而上学の基礎づけ』 (Grundlegung zur Metaphysik der Sitten) において提出され、『実践理性批判』において理論的な位置づけが若干修正された。 『実践理性批判』の§7において「純粋実践理性の根法則」として次のように定式化される。 「あなたの意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」 カントによれば、この根法則に合致しうる行為が義務として我々に妥当する行為であり、道徳的法則に従った者だけが良い意志を実現させるということである。 他の

    omega314
    omega314 2017/08/31
    「汝の信条が普遍的法則となることを、その信条を通して汝が同時に意欲できる、という信条に従ってのみ行為せよ」
  • ウィトゲンシュタイン哲学を学んだ日々の思い出 - hiroyukikojima’s blog

    昨日(11月10日)の朝日新聞・朝刊の文化面に、「ウィトゲンシュタインに光」という記事が掲載され、それにぼくのコメントが(一言だけど)載った。この記事は、ウィトゲンシュタインの遺稿が最近、発掘され、彼の哲学に新たな光があたった、という内容の記事だ。朝日を購買しているかたは是非、読んでいただきたい。 ウィトゲンシュタイン哲学の第一人者である鬼界先生と肩を並べてのコメント者となったのは、誇らしくもあり、申し訳なくもあった。なぜなら、ぼくは全く哲学の門外漢だからだ。そんなぼくになぜ、新聞記者さんの取材が来たか、というと、ぼくの著作の複数にウィトゲンシュタインの哲学を引用しているからだ。例えば、『文系のための数学教室』、『数学でつまずくのはなぜか』(ともに講談社現代新書)では、かなりなページ数をさいて、ウィトゲンシュタインの哲学の助けを借りている。 文系のための数学教室【電子書籍】[ 小島寛之 ]

    ウィトゲンシュタイン哲学を学んだ日々の思い出 - hiroyukikojima’s blog
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  • 五味健作のWWW出版「数理心理学」

    この頁内の目次 「成長」休止のお知らせ 著作権についての警告 内容の簡単な紹介 自薦の言葉 各章の概要 組版についての参考書 関連する文献 読み方いろいろ WindowsでのDVIファイルの読み方(推奨) Mac/WinでのPDFファイルの読み方 「成長」休止のお知らせ このは,進行中で未完成の研究の成果を逐次発表するとともに学生の教育に資するためにWWW出版の形態をとって書き始めたもので,1997年暮れの初版以来,研究の進展につれて頻繁に改訂を重ねてきました.教育効果は初版後すぐに現れ,数理心理学草創期の学生の水村泰明氏が(旧)単相格論理学における完全性定理を証明し東京大学2000年度修士論文として発表しました.それはその後拡張・一般化され7年後に,私との共著の論文として結実しました.またその後の学生の高岡洋介氏は,このの内容をよく消化・吸収し発展させ,その成

  • 人間原理 - Wikipedia

    英語版記事を日語へ機械翻訳したバージョン(Google翻訳)。 万が一翻訳の手がかりとして機械翻訳を用いた場合、翻訳者は必ず翻訳元原文を参照して機械翻訳の誤りを訂正し、正確な翻訳にしなければなりません。これが成されていない場合、記事は削除の方針G-3に基づき、削除される可能性があります。 信頼性が低いまたは低品質な文章を翻訳しないでください。もし可能ならば、文章を他言語版記事に示された文献で正しいかどうかを確認してください。 履歴継承を行うため、要約欄に翻訳元となった記事のページ名・版について記述する必要があります。記述方法については、Wikipedia:翻訳のガイドライン#要約欄への記入を参照ください。 翻訳後、{{翻訳告知|en|Anthropic principle|…}}をノートに追加することもできます。 Wikipedia:翻訳のガイドラインに、より詳細な翻訳の手順・指針につい

  • 数学的直観──フッサール現象学と数学の哲学──/貫 成人

    数学的直観 ──フッサール現象学と数学の哲学── 貫 成人 フッサールが現象学を創始した時期は、前世紀末の「数学基礎論黄金時代」に重 なり、また、ゲーデルの衝撃にもとづく 1960 年代以降の数学の哲学においても、フ ッサール現象学は注目されている。稿では、こうした動きをふまえた上で(Ⅰ) 、 「数学的直観」の現象学的分析(Ⅱ)を試みる。論者の多くは、フッサールの(数 学)理論が数学諸理論のどれかにコミットするはずのものと考えているが、それが はたして適切なのか、フッサール現象学がいかなる位置を他の諸理論にたいしてし めうるのかを明らかにするのが稿の目的である。 Ⅰ、数学の諸哲学とフッサール いわゆる「数学の危機(Grundlagenkrisis) 」にフッサールがどれほどコミットして いたかについては議論の余地がある1 。だが、 「数学基礎論黄金時代」を生み出した、 フレーゲ、ヒルベ

  • 本質 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "質" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2022年12月) 質(ほんしつ、希: ουσια (ousia), 羅: substantia / essentia)とは、あるものをそれたらしめる自性、ないしそうした特性から成る真実在をいう場合もある。 ある何らかの対象を律する際に充てがうロゴスを「何性(性[要曖昧さ回避]とも)」などと呼び、この呼称を質と見做す事が慣習である。而して同一性ないし類型学種差はこれらの派生である。 これと対比して、付加されたり欠如されたりして、それをそれたらしめる(必然性の欠在)付帯的な性向を

    omega314
    omega314 2013/09/05
    『対義語は現象。』
  • 【哲学】数学は発明なのか?【ゲーデル】 ‐ ニコニコ動画(原宿)

    杉並区高円寺で開催された素人哲学討論会の一場面(2011/11/20)。第09回哲学道場高円寺http://twipla.jp/events/14097哲学道場http://tetsugakudojo.web.fc2.com/マイリストmylist/30303400

    omega314
    omega314 2013/07/25
    「数学者とは,発明家であって発見者ではない。」byヴィトゲンシュタイン.
  • 数学の基礎(解説版2)

    omega314
    omega314 2013/07/25
    『"ZFC"集合論で排中律が成り立ってしまうのは、選択公理,外延性公理が非構成的だからでなく、実は外延性公理の導入に合わせて等号の消去規則を修正しなかったことに原因があるというべき("ε-"公理についても同様)』
  • 一応突っ込んでおくと、「言語ゲーム」の用法が間違ってるよ。

    「哲学上の諸問題と言われるもののほとんど全ては、定義の問題に帰着する。」というのは、L.W.ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」における中心的な主張。そして『言語ゲーム』というのは、そのヴィトゲンシュタインの作った言葉であり、論である。 そこまでは正しい。 だけど、「言語ゲーム論」というのは、「論理哲学論考」を書いたあと、「これで全ての疑問は解かれた」と宣言して田舎に引っ込んだヴィトゲンシュタインが(田舎で小学校教師をやっていた)、小学生とのふれあいの中から、自分の過去の論(すなわち「論理哲学論考」における思想)の欠陥に気づいて、その欠陥を説明するために作った論なのね。その後彼は、「哲学探究」というを出して、「論理哲学論考」が見落としていた問題について説明しようとした。それが成功したという人もいれば失敗したという人もいるが、このも20世紀哲学史に残る偉大な書であることは間違いない。

    一応突っ込んでおくと、「言語ゲーム」の用法が間違ってるよ。
  • 意味と形式

    あさお @okometsuvu 世界は、形式か意味か、ぐちゃぐちゃでよくわからない、そもそも分ける意味のない何かで満たされている、のか。

    意味と形式
    omega314
    omega314 2013/07/05
    記号の濫用云々。
  • Amazon.co.jp: ゲーデル 不完全性定理 (岩波文庫 青 944-1): ゲーデル (著), 林晋 (翻訳), 八杉満利子 (翻訳), 林晋 (解説), 八杉満利子 (解説): 本

    Amazon.co.jp: ゲーデル 不完全性定理 (岩波文庫 青 944-1): ゲーデル (著), 林晋 (翻訳), 八杉満利子 (翻訳), 林晋 (解説), 八杉満利子 (解説): 本