実家は淡路島の洲本市街地で堀井ガラス店というガラス屋を営んでいた[2]。幼少時は弁護士志望だったが、中学時代に漫画家志望に転換。 兵庫県立洲本高等学校時代は漫研に所属していたが、水泳部、ブラスバンド部(サックス担当)、さらに生物部、茶道部を掛け持ちしていた。この頃は、本気で漫画家になるつもりだったという。夜更かしが多くなり、遅刻の常習犯になった。自宅から学校まで自転車で5分くらいの距離だったにもかかわらず、高校2年の成績表を見ると出席日数210日のうち、197日遅刻しているほどだった。 高校3年の夏休みに永井豪の仕事場にアシスタント入りを志願しようと原稿を持って行くが断られ、「とりあえず大学にでも行くか」と受験勉強を始めた。早稲田大学を受けた理由は、漫画家志望で文学部が妥当だが歴史が不得手で、得意科目であった数学が受験科目にあるためと後に語っている[3]。 1972年に早稲田大学第一文学部