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歴史に関するmitsugusakamotoのブックマーク (21)

  • ヘレン・ケラー来会

    三重苦のヘレン・ケラーが塙保己一を顕彰する社団法人温故学会に来会したのは、昭和12年4月26日のことであった。 定刻の午後4時すこし前、2台の自動車が玄関に横づけされ、トムソン嬢に介添えされたケラーは静かに敷石の上に降り立った。 温故女学院の生徒や関係者一同が歓迎するなか、理事長斎藤茂三郎が先導し、通訳森岡正陽、関西大学教授岩橋武夫夫らと共に、版木倉庫から講堂へと進んだ。 講堂に入ると、「塙保己一像」や「塙保己一愛用の机」に触れ、トムソン嬢とケラーの指とがしきりに動いて会話している。満員の参加者は何事も見逃すまいとこの光景を眺めていた。 かくして、心ゆくまで保己一の偉業に接したケラーはトムソン嬢から森岡通訳を経て、次のように感想を述べた。 「私は子どものころ、母から塙先生をお手にしなさいと励まされた育ちました。今日、先生の像に触れることができたことは、日訪問における最も有意義なことと

  • 社会福祉法人 視覚障害者支援総合センター

    mitsugusakamoto
    mitsugusakamoto 2017/06/13
    そろそろ、こういう本は読んでおいた方がいいと思って、デイジー版を借りて、読み始めている。すぐ寝てしまうのでいつ終わるかわからないけど
  • 4.1 点字とコンピューター

  • ゆかりの10人が語る 人間・本間一夫 - 日本点字図書館

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  • 最適な日本語入力環境を発掘せよ

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  • 【10020】 点字新聞の話(5)社会の木鐸・中村京太郎先生 | 【吉備野庵】

    ★ 好先生の夢を実現したのは、最愛の弟子であった中村京太郎先生でした。 中村京太郎という方は、どんな人であったのか? このシリーズの最後として、そのことをお話しいたします。先生の年譜を辿りながら、時、折々の有名なエピソードを交えながら中村先生の人物像をご紹介していきたいと思います。 ***** 中村先生の足跡 ***** ★ 中村先生は、明治13年(1880)に、今は浜松市に併合されている旧静岡県浜名郡和地村にお生まれになりました。生来、眼疾で視力が弱かったのですが、地元の小学校に入って間もなく失明し、退学しました。そして13歳になって浜松の鍼灸治療院に弟子入りしましたが、数ヶ月で飛び出し、翌年、志を立てて、上京し、官立東京盲唖学校(現在の筑波大学付属視覚特別支援学校)に入学しました。 ★ この時、同郷の石川倉次先生と運命的な出会いをし、点字の指導を受けました。石川倉次先生は、日点字の

    【10020】 点字新聞の話(5)社会の木鐸・中村京太郎先生 | 【吉備野庵】
  • 【10019】 点字新聞の話(4)日本盲人の父・好本督先生  | 【吉備野庵】

    さて、これより好督(ただす)先生と中村京太郎先生、日の盲人福祉・教育を語る時、忘れることの出来ない偉大なお二人の「人と業績」についてお話しするのですが、私は、実に幸運なことに、両先生とご生前に親しくお話しを伺う機会を得ております。 ◎ それは、私と点字との出会い、とりわけ、テーマである「点字毎日」に結びついたご縁と深く関係しておりますので、ちょっと脇道にそれますが、その話も挟ませていただきます。 ◎ 私は、昭和25年から29年まで、1950年から1954年になりますが、京都の同志社大学で学びました。今では当然のように全国どこの大学でも障害学生が学んでいますが、当時、盲目の学生に勉学の機会を与えていたのは、同志社大学などごく僅かの大学しかありませんでした。 ◎ 昭和27年、1952年当時、私が3年生の時、5人の盲学生が学んでいましたが、入学に当たって、通学や勉学に必要は補助者は自らの責任

    【10019】 点字新聞の話(4)日本盲人の父・好本督先生  | 【吉備野庵】
  • 【10018】 点字新聞の話(3)・・・ 盲目のジャーナリスト誕生 | 【吉備野庵】

    ***** 罪滅ぼしで始まった点字新聞 ***** ★ 後半では、「点字毎日」が、誕生した経緯や、初代編集長の中村京太郎先生、その恩人である好督先生  好先生はそもそも「点字新聞」なるものを、世界で始めて発想した人物です。このお二人についてお話ししたいと思います。 ★ その前に、一言、この「点字毎日」をヘレン・ケラー女史が訪問された時のエピソードをご披露しておきたいです。それは、「点字毎日」の社会的評価と大いに関係する重要なエピソードだと思いますので一言、しておきたいと思います。 ★ ヘレン・ケラー女史は、3回、日を訪れておられますが、最後は、昭和30年、1955年のことでした。毎日新聞が招待しました。そういう関係もあって、入社2年目の私に関西滞在の三日間、お世話と取材の両方を担当するよう指示がありました。 【関係記事:三重苦の”奇跡の人”ヘレン・ケラー】 ★ この写真は、女史が「点

    【10018】 点字新聞の話(3)・・・ 盲目のジャーナリスト誕生 | 【吉備野庵】
  • 【10017】 点字新聞の話(2)確立した視覚障害者の言論 | 【吉備野庵】

    ***** 確立した視覚障害者の言論 ***** ★ これまで、説明したことでお分かりいただけると思いますが、「点字毎日」は、点字新聞の編集・発行だけでなく、数多くの文化事業を行っており、「編集部」は、さながら一つの独立した事業体のように自己完結的な組織になっております。 勿論、その中核に”点字の言論”がどっかりと座っています。「点字毎日」の中身、紙面構成は、どのようになっているのか? それを眺めて参りましょう。 ★ 大きさは創刊以来、A4判で、現在と変わりません。創刊号は16ページでしたが、現在は普通号が60ページです。その概要は、私自身が編集長であった頃、日新聞協会発行の専門誌「新聞研究」(1975年9月号)に発表した論文がありまして、それを「点字毎日」の現在のスタッフに質問いたしましたが、編集方針、紙面内容に大きな変化はございません。編集方針は基的に変わりないようです。 ★ 私が

    【10017】 点字新聞の話(2)確立した視覚障害者の言論 | 【吉備野庵】
  • 【10016】 点字新聞の話(1)・・・ 「点字毎日」の88年 | 【吉備野庵】

    ★ 日には視力を失った全盲者のための点字新聞があります。「点字毎日」といって、毎日新聞が1922年(大正11年)に創刊したものです。それからもう88年もの間、あの太平洋戦争の物資難の時でさえ、1号も欠かさず発行を続けて来た世界でも類のないユニークな新聞です。 ★ 私は、若い頃、この新聞の編集長を15年間、勤めました。そういうことから今なお、研究者や、福祉関係、特に視覚障害者の教育・福祉の関係者から、いろんなお問い合わせが続いてあります。が、私ももう80歳。この新聞について知っていることをすべてこのブログに書き残しておきたいと思います。 ★ 幸い、3年前、「大阪社会福祉史研究会」が企画された市民講座でお話しする機会がございまして、その折り、調べた資料もありますので、その折りの講演記録を用いて暫くこちらでお話しさせていただきたいと思います。 ***** 「点字毎日」の88年 ***** ★ 

    【10016】 点字新聞の話(1)・・・ 「点字毎日」の88年 | 【吉備野庵】
    mitsugusakamoto
    mitsugusakamoto 2010/08/11
    ここから続く雉は必読!!
  • 【】日本のネット史編さん、CCライセンスで公開――のはずが…… 

  • 六点漢字の自叙伝

    長谷川貞夫 この資料は、東京ヘレンケラー協会が、点字の雑誌「点字サイエンス」に、1996年11月号から1999年9月号までの35号にわたって連載して下さったものです。

  • 各日本語入力プログラムの特徴(MS-DOS時代)

    このページは、MS-DOS上で動作した日本語入力プログラムの特徴を、リコーの太田純さん提供の文章と画面写真で紹介しています。 PCの普及が始まったのはZ80などの8ビットCPU時代からだが、そのころのPCはせいぜい64KB程度のメモリーしか利用できず、日語処理を行うにはまだ非力だった。8086などの16ビットCPUが登場するとようやくまともな日語処理が可能になり、さまざまな日語ワープロや日本語入力プログラムが登場した。それをささえたのがNECPC-9801シリーズであり、またPC-9801の標準OSとなったMS-DOSだった。 MS-DOSは「マイクロソフトのディスクオペレーティングシステム」の略で、コマンド体系は8ビットPCのOSであったCP/M、OSとしての機能はUNIXに大きな影響を受けている。当時は640KB程度のメインメモリーと1.2MBフロッピー2台という構成が標準的だ

  • 歴史を変えたこの1台

    インターネット黎明期の低速・ダイヤルアップの時代から約10年が経ち、現在ではギガビットまで見据えたブロードバンドの時代を迎えている。こうした歴史の進化は、さまざまなネットワーク・セキュリティ機器の存在が大きい。ここではスイッチやルータ、無線LAN、L3スイッチなど、歴史を変えた機器を担当者のインタビューを交えて紹介していく。 2009年08月13日 09時00分 ネットワーク L3スイッチの代名詞「Summit」を生みだしたエクストリーム ネットワークス 最終回 LANをギガビットに導いた紫の遺伝子の軌跡 歴史を変えたネットワーク機器の最終回は、2000年代にブレイクしたレイヤ3スイッチの代表格ともいえるエクストリーム ネットワークスの「Summitシリーズ」である。ギガビットEthernet普及の立役者でもあるエクストリームの軌跡を追っていこう。 2009年08月12日 09時00分 ネ

    歴史を変えたこの1台
  • UNIXとCを作った男 - @IT自分戦略研究所

    連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) 連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 ケン・トンプソン(Ken Thompson)―― AT&Tベル研究所技術者 ケン・トンプソンといえば、UNIXとC言語を作った人物として有名である。写真で見る限り、長髪で頭の真ん中が薄くて、ひげを生やし、眼鏡をか

  • MINIXを作った男 - @IT自分戦略研究所

    連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) 連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 アンドリュー・タネンバウム(Andrew S. Tanenbaum)―― vrije大学数学計算機科学科教授 後にMINIX(ミニックス)というOSを開発することになるアンドリュー・タネンバウムは、1941年にニ

  • 現代中医鍼灸学の形成に与えた日本の貢献

  • GUI革命を先導している男と先導しかけた「alto」

    画面上のアイコンをクリック――現代では多くの人にとってあまり違和感のないこの言葉ですが、そこにはGUI(グラフィカルインタフェース)とマウスなどのデバイスの存在が欠かせません。もともと軍事的な利用を目的に開発されたIT。それを一般の人でも簡単に利用してもらうにはどうすればよいのか。今回は、1973年に開発された「Alto」というパソコンの裏側にあった、1人の革命があったのです。 GUI革命を先導した2人の男 現在、わたしたちが使っているパソコンには、ほぼ間違いなくマウスが用意されています。キーボードでコマンド直接打ち込んでコンピューターを操作していた時代から、マウスで画面上のオブジェクトを移動させたり、クリックやドラッグといった操作したりできるようになっています。コンピューターのあり方を大きく変えたマウスは、1961年にダグラス・エンゲルバートによって発明されました。 この数年前の1957

    GUI革命を先導している男と先導しかけた「alto」