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差別の根源は「否定的な連想を持ちやすい感受性」:研究結果 2007年11月20日 社会 コメント: トラックバック (0) Brandon Keim Images: Macroninja [『Discover』の記事によると、白人のうち、黒人に対してなんらかの偏見を持っている人の割合は80%以上という研究(PDF)がある。 しかし、ノースウェスタン大学のRobert Livingston博士とウィスコンシン大学のBrian Drwecki博士によると、偏見テストで測定される「偏見度」が顕著に低いという人たちも存在し、このような人は白人のうち約7%を占めるという。彼らは、これらの人たちがなぜ偏見度が低いのかを研究した。その結論は、これらの人は、人種問題に限らず一般的な物事に関して否定的な連想をすることが少ないというものだった。] 実験では、人々にまずなんら良くも悪くもない印象の図――この実験
広告は愛だ。とか。広告は企業から消費者へのラブレターである。とか。そんなことを書くつもりはありません。当方のリアルな姿を知る人が見たら、何をかっこつけてんだよ、なんて言われそうだしねえ。なんか、ブログではぜんぜん違うんだね、ふふふ、ってのがありありと思い浮かぶし。 ということで、なぜ恋愛と似てるか。まあ、結論から言えば、理屈じゃないってことですわ。例えばね、ある人を好きになって、いろいろと考えるよね。その人は何が好きなのか。その人に恋人はいるのかいないのか。自分はその人にふさわしいのかどうなのか。あらゆる状況を考え抜いて、ああ言われたらこう言う、みたいなこととか、ああしてこうしてああなって、みたいなことをシミュレーションして、でもって、告白する。でも、いくら考えたこところで、理屈とか関係なしにふられる時はふられますわな。あいつより絶対俺の方がいい、あらゆるところで秀でている、なんて叫んでみ
先日、うみねこがなく頃にというゲームをプレイしたのですが、その中に「チェス盤をひっくり返す」という表現が頻繁に出てきます。簡単に言ってしまえば、相手の視点に立って考えるということ。将棋なんかでも、攻められているときにどうやって守るかを考えるだけでなく、相手の立場になって-将棋盤を180度ひっくり返して-自分ならどう攻めるかを考えると全然違ってくるものです。 こういう話だとどうしても人狼BBSの話になってしまうのですが、人狼BBSの場合は一日たった20発言の中で、自分が人間であることのアピールをしつつ、村の中から人狼を探さなくてはなりません。なので、「この発言は人間っぽい」と思っても、“チェス盤をひっくり返して”考えると、人間だから人間っぽい発言をしたのではなく、人狼だからこそ人間っぽい発言をしているのだともとれるのです。 そんな心理戦を愉しみすぎたせいか、今でもブログを読んでいて「この人は
誰かに殴られたから、殴り返した。この殴り返したくなる感情は、悪意ではない。殴られれば怒ってやり返したくなるのは当然。 別に何も相手から危害を加えられてもいず、相手に対して怒りも感じていないのに、その相手を積極的に傷害してやりたい、と感じるのは、悪意だろう。 悪意が生ずる、悪意が成立するのは、相手あってのことだ。自分ひとりの中でどろどろとした感情を練り上げても、それが別の誰か(単独の人物とは限らない)に向かうベクトルを持たない限り、悪意という形はとらない。 一方、それゆえに悪意は表現形で判断されるものであり、ある行為について悪意の有無が取り沙汰されることがある。もともと悪意があったかなかったか、ではなく、表現形が悪意的であったかなかったか、のほうが重要である、という観点が存在するわけだ。 なにより、なぜ悪意は存在するのだろう。 幼い子どもに悪意は存在しない。子どもは無垢だ、という意味では全く
少なくとも悪意の一つの形態は、嫉妬から来るものではないか、と僕は思う。 しかし、早い子は5〜6歳頃から、おおかた小学生以降になると、これは悪意である、と思われるものが見られるようになる。最もわかりやすい形は、いじめだ。 この萌芽がどこにあるのか、に興味がある。 悪意について。悪意とは。 - 深く考えないで捨てるように書く、また これはいじめにあった側からするとなんとなく。でも、その嫉妬そのものは、単に相手が自分より優れたものを持っている、と言うことに対するものではなく、もうちょっともやもやしたものなんだろうな。本当にたまたまそのときだけ、例えば自分が好きな子が他の人と楽しそうにしている、とか。普段は気にも留めないことで。ある意味ではそれは怒りなのかも知れないけれども、とにかくそういう感情を単純な形で発露できなくなる…それは社会性の醸成とともに身に付けるある種の処世術なのでしょうけれども…こ
2007年10月20日22:30 カテゴリPsychoengineering 嫉妬心は協調性の表れではないか なぜかはてブで私の名前が出てきたので、これを機会に嫉妬について考察しておくことにする。 構想力 谷川浩司 POLAR BEAR BLOG: 「嫉妬は可能性の表れである」これは谷川さんがスランプに陥り、それを克服した際のエピソードに登場するものです。 [中略] だから、もし嫉妬心を覚えたとしたら、「それは自分に可能性があるからだ」と考えればいいのである。 上記の谷川棋士の例は、劣等感ではあっても嫉妬心ではないのではないか。 同書は私もだいぶ前に読んだのだが、そこから劣等感は読み取れても、嫉妬は読み取れなかった。確かにそこには「嫉妬心」という言葉が使われているのだが、その言葉が使われていることに私は強い違和感を感じた。 劣等感、または羨望と、嫉妬には深い相関関係があるが、この両者は同一
雑誌の対談で激作家の人といろいろ話し込んでいたんだが、児童文学作家は次々と一般文学やエンタメで活躍するのにラノベ方面で売れた人は結局長続きしませんという話になり、うるせー馬鹿という流れになった上で、議論の結果、ちと言い方は悪いが、表題の通りのような結論となりましたのでご査収ください。 ヲタが持ち上げ様式美となってるツンデレってのは、女との経験が乏しく脳内世界観で完結した経験の浅い読者が女性描写を満足にできず不当に持ち上げられているだけのものだ、ってことでありまして。 ただし、私が言いたいのはヲタというのは欠けている表現や不充分な記述を脳内妄想で補完しながら自分の好みや都合の良いように修正しながら登場人物や世界観にのめり込んで逝く性質が強い。ちょうど、えんぴつ書きのラフ画は見る人全てが一番都合の良いラインで評価してしまうため、仕上がりや塗りを見て「なんだこりゃ」になるのとほぼ同様のことではな
何かを選ぶということは、そのとき同時に何かを選ばないということに通じ、 何かを行うということは、そのとき同時に何かを行わないということに通ずる。 この、陳腐で当たり前の事実は、行動上の選択肢が少ない時にはあまり意識しなくて済んだかもしれないが、一個人の選択肢が多岐に渡る状況(例えばモラトリアムの時期にある現代青少年が直面している状況)ではとりわけ意識させられる。 選択肢が多岐に渡る状況における全選択は、「何かを選んだ」というよりはむしろ「取捨した」と表現するのが似つかわしく、「何もしない」ということさえも「何もしないということを為し、他の選択肢を握りつぶした」と捉えるのがより適切にみえる。このことに気づかぬ人は、「無思考・無決断のままに、望ましくもなければ望んでもいない決断を繰り返す」ことを余儀なくされ、なかには「怠惰」という選択で人生を埋め尽くしてしまう人もあるかもしれない。一方、このこ
打たれ弱いと不幸なのか?(by「大きな声では言えないけれど」(4/11)) ↑を読みながら、はじめて自分のサイトで「ネットバトルめいたもの」をやったときのことを思い出してしまいました。あれは確か「死刑制度の是非」についての論争だったと思うのですが、自分のサイトの掲示板で、次々と繰り出される相手の「正論」に、「もうやめようよ。疲れたから……」と憔悴しつつも、眠れずに夜中に何度もドキドキしながら掲示板を覗きに行って、反論の書き込みがなければガッカリ、あればグッタリしていたのを今でも覚えています。ネット上とはいえ、他人と闘うというのは、かなり消耗するものではあるんですよね。さらに、その「バトル」は、それなりの数の人が見物しているわけだし。 2007年2月20日、小泉純一郎前首相が自民党幹事長室をたずね、中川幹事長・塩崎官房長官を前に「目先のことに鈍感になれ。鈍感力が大事だ。支持率が上がったり下が
十分に民主化された状況下において、これまた十分に愚かな民によって政治が運営されるとするならば、愚民たちの短い射程距離の未来予想図を超えた高い識見は政治に滅多に顕れることはない。愚民の平均的判断力・理解力を越えた政策は、十分に民主化され十分にガラス張りの政治においては発揮され得ない。 追記:既存のマスメディアは、この問題の克服には寄与しない。私達はメディアを保有しようがしまいが、常に愚かである。 追記2:もし、愚民の平均的判断力・理解力を越えた何かが政策に顕れるとしたら、それは「密室」「非民主的な何か」の存在を私に連想させる。すべてがガラス張りになることなど現実にはあり得ないifに過ぎないが、もしそのような事態が発生したなら、私達は正しく迷走することが出来る、と思われる。
2007年02月15日 人を「嫌う」ということ(その1.5) 次の記事は「「嫌い」であることと「ウザい」「苦手」「不快」と思うことの境界」について。つまり、「嫌い」という感情はなんなのかってのを考えてみようと思ったのだが、前回の記事で「相手に伝える」という事の状況やニュアンスについて、幾人かに誤解を受けているようなので、少し補足してみよう。(やはり言葉や文章で考えを伝えるのは難しいなぁと実感) *「嫌い」を伝える状況 まず、状況についてなのだが、前回の記事で追記したように「自然と距離を置くことが可能」な場合については想定していないということを述べておく。そのように心理的にスルーしたり、適度な距離を保てているのならば前回の話はほとんど関係がない。わざわざ関係の薄いところに出張して伝えることで、揉め事を起したり軋轢を作れという話ではないのだ。 次に、いまいちそのような状況が思い浮かばないという
うまくいかない日に仕込むラペ 「あぁ、今日のわたしダメダメだ…」 そういう日は何かで取り返したくなる。長々と夜更かしして本を読んだり、刺繍をしたり…日中の自分のミスを取り戻すが如く、意味のあることをしたくなるのです。 うまくいかなかった日のわたしの最近のリベンジ方法。美味しいラペを…
「 mohican:keyword:ネタ">ネタブログ」って維持するのは難しいなぁ(笑) タネあかし。:http://qsoboku.exblog.jp/5488188 あまり「ネタ逃げ」とかそういう理由で責めるようなことはしたくないのですが、こういう態度の人と *真剣に* Web上で論理だけを用いて話をさせてもらうには、どうすればいいのでしょうか? 俺では、どうもその方法が、せいぜい「リアルでの、本人及びその大切にしている人やものへのテロ」ぐらいしか思い付かないのです。まあ、どれだけ「どうでもいい」とタカをくくっている人でも、自分に塁が及べば、ひとまずは真剣に対応されるとは思いますので…たとえそれが、罵倒なり報復なりの敵対行動であっても、「どうでもいい」と端から相手にされず、問題自体を矮小化されるよりはよっぽどマシだと個人的には考えます。 しかしながら、そんなものは所詮実行不可能なことで
よく「『誰が書いたか』で判断するのではなく『何が書かれているか』で判断すべきだ」みたいなことが言われます。 つまり、作者ではなく、内容で判断せよ、ということです。 これは明らかに正論です。否定のしようも無い正論です。正論過ぎて、青臭い書生論の正論です。つまりは、正しいけれども糞の役にも立たない。むしろ邪魔なだけの正論です。 「誰が書いているか」派と「何が書かれているか」派、という区分けが出来るとするならば、これは比重の問題であって、オールオアナッシングではないのですが、どうも、「何が書かれているか」派のほうが、「誰が書いたかは関係ない、問題は中身だ」的な物言いが多いような気がします。 「誰が書いているか」派と自己分析している人間で、さすがに「誰が書いたかが全てだ。内容なんて関係ない」という人はいないでしょう。「何が書かれているか」派であっても、完全に作者から切り取るということは考えていない
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