藤原定家の和歌、ここまで連作歌を中心にしていろいろ取りあげてきた。それは、定家の和歌が、一首の和歌(作品)として完成している(それ自体が一つの即自的な世界を構成している)ものでありながら、同時に、あくまでも連作のなかの一首として、個々の和歌が提示している作品世界とは別の世界の構成要素の一部であり、定家の和歌を味わうということは、単に一首の和歌を味わうにとどまらず、連作全体に対する視点が不可欠だといいたかったからだ。したがって、「南無妙法蓮華経」の歌がとりわけそうであるように、連作ということを考えながら定家の歌を読んでいくと、通常の意味での「歌の意味」ということは言えないということになっていく。 以上のことは、定家の歌の多くが連作としてつくられているということからの帰結なのだが、連作の問題をとりあえず凍結して、一首ずつの和歌を取りあげた場合にも、今度は「本歌取り」の問題がたちはだかってくる。