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文学に関するmadookaのブックマーク (4)

  • 死ねないから丁寧な生活をしている

    わたしが恋人のことを好きなのは、彼があたらしい子どもを作ろうとせず、働くことが好きではなく、それでも秩序をもって生活しようと努めているからです。 彼は、帰ってくるとまず上着をコート掛けにかけて、きちんとブラシをかけます。スーツを脱いで、所定の位置のハンガーにかけます。ワイシャツとマスク下は洗濯籠へ。部屋着に着替えたあと、手を洗います。厚労省の手の洗い方。どんなに疲れている日でもそうします。 丁寧な生活をするのは、生きるのが好きだからでしょうか。彼はよく、白くてつるんとした琺瑯のポットでお湯を沸かして、紅茶を淹れてくれます。わたしは、紅茶のことが好きなふりをして「紅茶飲むのって好き」って言います。でも、ほんとうはそうじゃない。形のいい琺瑯のポットに水を入れて、コンロに置いて、火をつけてあたためて、そのあいだに茶葉を選んで、湯気の立つ透明な湯を細いきれいな形の口からガラスのポットに注ぐ、砂

    死ねないから丁寧な生活をしている
  • 茶とコーヒーと俺ん家の話

    俺は30過ぎてこどおじで、別に給与が特段低いとか家族の介護が必要とかそういう事情でもなく、俺個人に引っ越しするための意欲が湧かないのと、そもそも家を出る意義がもう一つピンと来てないので、実家にいる。 俺と両親合わせて3人の家族仲は特別良くも悪くもない…というのは、家庭内の緊張とか不和とかの微妙な感情をないまぜにして無難に平均化した言い方で、俺と両親はそれぞれあまり会話もないけど、「お前、いつ家出るんだよ? あと、結婚…はまあ置いといて、日々の言動とか読んでるとかなんか変なんばっかりだし、まともに社会人やれてるんだろうか?」的な無言の変な気まずさを感じるし、母と父の方はわりかし明確にいまお互いの生活態度にストレスを感じているっぽい。 しかし、だからといって、各々の了見をめぐってケンカになったりとかもないのだ。だから、まあ特別仲は良くも悪くもない、ということになる。 … 夕飯は大抵三人で一緒

    茶とコーヒーと俺ん家の話
    madooka
    madooka 2021/01/24
    良い…。
  • 潰れそうな飲食店が好き

    こう言うと語弊があるかもしれない。 言い換えれば、いつもガラガラの飲店が好きだ。 コロナ前から飲店で待たされるのが嫌いで、休みの日は14時とか17時とか人を避ける為にあえて半端な時間に来店する事が多かった。そういうのもあっていつ行っても空いてる店は大好物だ。美味しいとか美味しくないとかはを楽しむ上での一要素に過ぎない。 ガラガラの店を好むので、自分が通う店は気がつくと閉店してしまう。駅前の洋屋は無くなった。定屋も店を畳んだ。寿司屋ももう無い。蕎麦屋も消えてしまった。 なんだか死神になった気分だ。栞としてに挟まれた忍者は平成12年からずっと誰にも発見されず図書館で眠っている。最近近くに出来た店が気になってたので今日覗いてみたら、19時なのにシャッターが降りていた。コロナ禍で流産したのかもしれない。飲店の命は儚い。

    潰れそうな飲食店が好き
  • 人間になった人魚姫の裸を数十年間オカズにしている話

    世の中には誰でも知っている物語をこんな風に汚れた目で見ている奴もいる。 物心付いた頃から、世の中に存在する数多くの人魚姫の絵に対して、言いようのない困惑を抱いていた。 人魚姫、それは様々な子ども向けの読み物の中で唯一、女主人公が読者の目に全裸を晒す場面のある物語だった。 幼少期の俺にとって、魚の尾鰭が人間の女の下半身にすげ替わった直後の人魚姫の描写は、あまりにも衝撃的だった。 人魚達には人間のように、動きにくい服で生身の体を覆い隠す文化がない。 ほとんど生まれたままの体に装飾品をつけ、自由自在に海の世界を泳いでいる。 しかし、直前のページまで「人間ではない空想上の生き物」として許されていた人魚姫の姿は、人間の下半身と接続した途端、突然「子どもが見てはいけない生々しいもの」に変質する。 人魚姫が人間になろうとして、何もわからないまま「なり損ねた」ぶざまで痛ましい姿が、あの裸身なのではないか

    人間になった人魚姫の裸を数十年間オカズにしている話
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