【速報 JUST IN 】児童文学作家 那須正幹さん死去 79歳「ズッコケ三人組」など #nhk_news https://t.co/k9zbJCcCxa — NHKニュース (@nhk_news) July 22, 2021

まずね、小説が映画だとしたら、詩歌は写真なの。 旅行写真でも卒業写真でもなんでもいいけど、自分にとっては大事な一瞬をとらえた写真って、知らない人が見たら「なにこれ?」ってなるでしょ。でも撮った本人はその一枚でもあのときのことを思い出せるから、わぁーいいなあってなる。そんなふうに物語そのものではなく物語の痕跡から全体像をを想像して味わうのが詩歌の楽しみ方のひとつだから、詩は本来、書いた本人にしか分からないのが普通なんだよ。 だから詩はあなたにも書けるし、けれどもその詩は他の誰かには全く理解してもらえないかもしれない。あなたにとっては切実な場面でも、「なにこれ?」ってなっちゃう。 だったら他人が他人の詩歌をどう評価できるんだっていうと、みんなまず物語以外の部分をかみしめてるみたい。言葉って意味だけじゃなくて音や文字もあって、たとえば漢字がいっぱい並んでたら理屈抜きで「うわ、めんどくさ!」ってな
2014年04月28日08:00 「文学性」はラノベにこそ発見されなければならない 1 名前:名無しさん[] 投稿日:2014/04/26(土)18:40:05 ID:24wPS4Vi2 最近(でもないが)オタクの中で「最近のアニメは萌えさせようという媚が見えて嫌だ」「昔は萌えアニメじゃないものから自分で萌えを見出していた」という声が散見される そして然り、これは正しい 最近のアニメがどうかはともかく、「押し付けられる萌え」というのはひどく味気なく、「萌え」とは常に探求すべきものだ 次に続く 3 名前:名無しさん[] 投稿日:2014/04/26(土)18:43:00 ID:24wPS4Vi2 最近のアニメは非常になんというか萌え萌えしている、これを「押し付けられた萌え」「媚び」と解釈されても仕方ない一面はあると思う そして、文学にもまた同様のことが言える たいていの文学は文学文学している
「どういうことですか? いきなりスウェーデンまで呼び出して……」 「ミスター・山中、お忙しいところをすまない。が、なにせコトがコトでな。ボブ・ディランの件はご存知だろう?」 「ええ、そりゃあまあ……」 「クソ文学アカデミーめ。だから文学に賞を与えるのは反対なんだ。 しかし、起こってしまったことはしかたあるまい。 たかだかポップ歌手ごときに国王陛下と委員会の威厳を汚させるわけにはいかん。 そこで……ここにディラン氏の毛髪があるわけだが」 「……!? まさか、ips細胞で……」 「さすが、科学者。理解がはやくて助かるよ。 さっそくこれを使ってボブ・ディランのクローンを作ってくれ」 「いや……その…… なんていうか…… よく誤解されますけど、ips細胞ってそういうんじゃないんで……」 「どうした? 万能細胞ならクローンくらい楽勝だろ? 出し惜しみするなよ」 「できないこともないっちゃないんですけ
アニメ映画の『聲の形』が「感動ポルノ」と批判されているのを見かけて、それは違うんじゃない? むしろ『君の名は。』の方が感動ポルノにずっと近いのでは、と思った。同時に、感動ポルノという言葉より、60年以上前からある「俗情との結託」という言葉で考えた方がより正確に捉えられるとも思った。(「欲情」ではなく「俗情」です。) その辺を、差別って何なんだろうかという点も含めて一度整理しておこうと思って。 感動ポルノ、差別、俗情との結託のスコープの違い 俗情との結託:通念を無批判に肯定することで作品を成立させること 差別の構成要件:現実に人を不当に苦しめている通念を、無批判に肯定すること 感動ポルノ:障害者(あるいはマイノリティ)への差別意識を内在化させた上で、受け手の気持ちよさを成立させること だとすると、こういう包含関係になる。 ここで「作品」とは、単独の作品でも複数の作品群でも構わない。 感動ポル
既成の価値観を否定し、それまでの美術史を切断した芸術運動「ダダ」。この動向に日本でもっとも早く反応したのは、美術家ではなく詩人だった。 1916年2月にスイス・チューリッヒで起こったダダが日本に紹介されるのは、約4年半後の1920年8月15日。新聞『萬朝報』の「文藝」欄で取り上げられたのが最初である。具体的な作品の紹介はないが、ダダの特徴として〈文字の組方が同じ頁の中に縦に組まれて居たり横に組まれて居たり甚だしきに至つては斜に組まれたりして居て、内容よりも外形に重きを置いてゐるやうな傾向がある〉ことについて言及されており、かえって読者の想像力を刺激しただろう。 ©篠原有司 この記事でダダを知った詩人の高橋新吉は、すぐにダダ詩を書きはじめ、日本で最初のダダイストとなる。1923年2月に出た高橋の詩集『ダダイスト新吉の詩』は日本のダダ詩の誕生を告げる一冊で、中原中也や遠地輝武をはじめとする日本
書名:『アンドレ・ブルトンの詩的世界』 発行:慶應義塾大学法学研究会 発売:慶應義塾大学出版会株式会社 初版発行:2015年10月30日 定価:4,900円(税別) アンドレ・ブルトンとフィリップ・スーポーの共著による『磁場』は次の二つの点でまさに革命的な書物だった。第一には、あらゆる意識的な(道徳的、審美的)配慮を排除して無意識の言語の流れを書きうつすという「自動筆記」の方法を最初に適用した作品であること。そして第二には、私にとってはこちらの方がより重要なことに思えるのだが、二人の詩人が共同で執筆したという点、それも無署名でもって、つまりはどの箇所をどちらが書いたのか明記せずに一つの作品を創りあげたという点である。私たちは長いこと、ある作品はある作家や詩人の個人的な才能の産物であるという神話に慣らされてきた。だが(中略)それは単なる文学的約束事にすぎないのではないだろうか。(中略)作品は
書名:『アンドレ・ブルトンの詩的世界』 発行:慶應義塾大学法学研究会 発売:慶應義塾大学出版会株式会社 初版発行:2015年10月30日 定価:4,900円(税別) 朝吹亮二の『アンドレ・ブルトンの詩的世界』を読んで驚いた。ストレートに言えば、朝吹氏がここまでシュルレアリストだったとは思っていなかった。朝吹は慶應大学の先生だが、日本に初めて本格的にシュルレアリスムを紹介したのは慶應大学の先達で詩人の西脇順三郎である。西脇門下から自他ともに正統シュルレアリストを称した瀧口修造が出た。戦後になってその影響下に東大系の飯島耕一、大岡信、東野芳明らがシュルレアリスム研究会を結成し、戦前は不十分な受容に終わった日本のシュルレアリスムが、理論研究でも実践面でも軌道に乗ったのである。ただシュルレアリスムはすでに終わった過去の文学運動のはずだった。 もちろん〝シュルレアリスムが終わった〟というのは言葉の綾
ちょっと遅くなりましたけれど、過日開催された樺山三英によるイベントというか講演に行ってきたことについて簡単にメモしておきます。 7/2(土)17:30~『ドン・キホーテ』再入門/ゲスト:樺山三英氏『ドン・キホーテの消息』出版記念 | Peatix ドン・キホーテの消息 作者: 樺山三英出版社/メーカー: 幻戯書房発売日: 2016/05/26メディア: 単行本(ソフトカバー)この商品を含むブログ (8件) を見る赤坂に新店舗を移した双子のライオン堂で樺山さんが講演をすると聞いて、しかも題材が『ドン・キホーテ』だったのでこれはと参加することにしました。 講演は新作『ドン・キホーテの消息』を刊行した樺山さんによるドン・キホーテの解説というかたちになっており、『ドン・キホーテ』の内容紹介から、これまでの受容の歴史を追い、そして現代において『ドン・キホーテ』をどう読むかということについて語ったもの
――司会 最初に伺いますが、ご受賞が決まったお知らせを受けてのご心境をお願いします。 「ご心境という言葉は私の中には存在しておりません。ですからお答えしません」 ――司会 それでは質疑応答に入ります。なにかございますでしょうか。 ――蓮實さんはどちらでお待ちになっていて、連絡を受けたときはどのような感想を持たれたでしょうか。 「それも個人的なことなので申しあげません」 ――今回、候補になったとき、事務局から連絡があったと思いますが、新人賞である三島賞の候補になることをお受けになったのは? 「それもお答えいたしません」 ――町田康さんの講評によると、さまざまな議論があった中で、「言葉で織り上げる世界が充実していて、小説としての出来は群を抜く」という評価があったと。その評価についての思いは何かありますか。 「ありません」 ――司会 他に質問は? 「ないことを期待します」 ――通常こういう場です
岩波書店の文学雑誌「文学」が、今年11月末刊の11・12月号で休刊することが分かった。 戦中の休刊を挟んで80年以上の歴史を持ち、最新の文学研究の成果を一般読者に紹介する雑誌として親しまれてきたが、同社は「大学での文学研究に逆風が吹いている状況や出版不況により、部数が減少した」としている。 同誌は、岩波書店が創業20年を迎えた1933年(昭和8年)、「純正なる文学理論の建設」などを掲げて創刊された。多くの研究者が論文を発表したほか、三島由紀夫をはじめ、著名な作家も執筆した。「思想」「科学」と並び、同社を特色づける雑誌の一つだった。90年から季刊、2000年から隔月刊。 日本文学関連の雑誌では、「国文学」(学燈社)が2009年、「国文学 解釈と鑑賞」(ぎょうせい)が11年にそれぞれ休刊している。
英文学(English studies)の歴史は浅く、まだ誕生から二百年にも満たない そもそも英語で書かれた文学作品について何かを語るという行為が学科目として成り立つと考えられていなかった ギリシア、ローマの古典は研究されており、教養ある紳士になるための必須科目として扱われ男性に独占されていたので初期のフェミニストは古典を学ぶ権利のためにも闘ったのだが、逆にいえば英語で書かれたものは「女子供の読み物」に過ぎなかった そんな女子供の読み物が、インドでは真面目に読まれていたのである 19世紀の前半、東インド会社はインド人に対する植民地支配を進めるうえでキリスト教へ改宗させればよいと考えていたが、イギリス本国では改宗政策は危険だという考えが広まっていたため、聖書にかわる「人間化」のための道具が必要だった そこで選ばれたのがイギリスの文学で、東インド会社はそれらイギリスの文学作品を通じてイギリス式
>>17 みーまーなんこれ あっそうだ みーまーと電波女と青春男を連載してた入間人間連載中の安達としまむら面白いぞ 純愛百合って感じで興奮するぞ
彡(゚)(゚)「まあいきなり安部だの三島だのから始めるのもあれやから」 彡(^)(^)森鴎外からいったろ!」 彡(゚)(゚)「まず、近代文学というのは何か?」 彡(゚)(゚)「これは当たり前なんやけど、多くの外来文化の中でいかに伝統的文化を残しつつ新しい文化を作るか?」 彡(゚)(゚)「言い方を変えれば、西洋のような、文化的なるものの死に対してどう対処すべきか?」 彡(゚)(゚)「これが当時の文学者の使命であったと思うんやな」 6 : 名無しさん@おーぷん[] 投稿日:2015/12/09(水)02:17:06 ID:cU6 [3/25回] 彡(゚)(゚)「で、森鴎外は言文一致になる前の日本の伝統言語としての文語によって作品を残したんや」 彡(゚)(゚)「それは鴎外自身の海外体験、当時のエリートの仕事と伝統的なるものと近代的自我の狭間で苦しむという」 彡(゚)(゚)「まさしく近代文学として
トラベルミステリーの大家・西村京太郎が、大ベストセラー作家になる以前の初期作品群は実際のところどのくらい面白いのか? 西村京太郎を読まず嫌いしていた新本格世代が実際に読んで確かめてみました。
あるライブハウスのイベントに出演したときのことだ。朗読のパフォーマンスを終えた私に、初対面の男性がこう尋ねてきた。 「あなたの朗読にはエロスが感じられないね。最近セックスしてる?」 セックス? あっけにとられ、固まった。空気は完全に凍りつき、その場の男性たちも顔を見合わせて黙り込む。 「そんなの関係ないと思いますけど......」 精一杯に反論するも、彼は「いや、あるね! 男と濃い恋愛をして、その経験を詩に注ぎ込まないと!」とお決まりのアドバイス。立派な(?)セクハラである。 彼の言動も腹立たしいが、何より歯痒かったのは、彼に対する自分自身の反応だった。下世話な質問にまごついてしまい、彼の思惑通り「臆病な女の子」を演じてしまった。打ち上げの飲み会で、同じ質問を受けた同世代の女性は、「イエー! セックス!」と軽やかに応酬し、笑いに変えていた。その光景もまた衝撃的だった。たとえ私が「イエー!」
ボブ( ・ㅂ・)و ̑̑ツイ減 @jasminheimatlos @drydeniana ロミオさんがサイドバックなのは、自陣で敵選手に飛びかかって PKを与えたり勘違いで自殺点を入れたりする自爆性能に期待してだと思っていました。 2015-09-22 14:46:09
(これは一ヶ月前に出たもので、書いたのは二ヶ月前) 前回触れた『絶歌』の件だが、『文學界』の八月号で、栗原裕一郎が短文を書いていて、少年Aと太田出版の行為を「蛮行」と評していた。しかし栗原はかつて太田出版の依頼で書いた、のち『盗作の文学史』として新曜社から刊行された原稿を、どたん場で刊行拒否されており、恨みを抱いている。果たして適切な人選だったか私は疑問だが、栗原は、ゴーストライターによるものではないようだとしつつ、匿名であるため信憑性が低くなっていると書いている。 匿名だと信憑性が薄いというのはこの場合よく意味が分からない。奇妙にこの「匿名」をあげつらう者がいるのだが、難癖をつけようとしているとしか思えないのである。遺族の一人が時おり発言しては大きく報道されるのだが、これは遺族ファシズムではないかと思った。本誌七月中旬号に掲載された深田卓の「出してはいけない、売ってはいけない本はない」は
http://anond.hatelabo.jp/20150923114800アニメ違いは色々あるが、アニーメーションに限らず映像作品は場合流れの中で安定する様に絵コンテを切る。この理由は静止させて中割までのコマを連続で追うとより分かりやすい。例えば先日、http://cgtracking.net/archives/37751 のデモムービーを見たが、全編にわたって静止してかっちり静止画像として嵌る「コマ」は存在しなかった。これはアメコミにしても漫画にしてもバンドデシネにしても嵌らない。つまりコンテ時点で紙媒体のコマと見せ方が違う。アニメの場合俯瞰映像で二者を映してテーブルごと会談しているような写し方でも違和感はないが、これを漫画でやってしまうと相当冷静なコマ割りとなって心理効果はかなり突き放した目線になる。ところがアニメの場合ここに慌てたりする声を吹き込んだり、リアクションを取らせること
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