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歴史に関するkash06のブックマーク (1,033)

  • コンピューターと呼ばれた女性たち

    ◎ 現在では、 コンピューターと云う言葉は 「電子計算機」 を指しているが、 そもそもは 「コンピューター」 と云う言葉は人間の職業名であった。 研究機関や企業にあって数学的な計算を担当していた人びとを指していた。 通常、 数人でチームを構成し、 巨大で複雑な計算を分担して、 同時並行的に行った。 来る日も来る日も、 対数表を片手に手計算か、 もしくは手回し式の計算機で計算をした。 彼らは 「計算手」 (computer) と呼ばれた。 「コンピューター」 と云う言葉は、 もともとは、 こうした人たちのことであった。 若手の研究者たちが、 この仕事を命じられていた。 しかし、 ハーバード大学天文台のエドワード・ピカリングが、 1900年頃、 天文台の計算手として大量の女性を採用したことから、 にわかに女性で計算手になる者が多くなり、 更に、 第2次大戦で、 男子の若手研究者が徴兵されて減っ

  • 「日本人がどんぐりや土器でウホウホしてる時代に中国は鎧着て春秋戦国時代…」から始まる、文明と歴史に関する議論

    ボト @botomeze 日人がどんぐりってウホウホしてる時に中国はすでに国を作って数千年経ってて、そこから春秋戦国、楚漢戦争、漢王朝500年の栄達、三国志でやっと俺らの知ってる邪馬台国が出てくるからな 中国文明すげーよ 2024-12-26 16:28:14

    「日本人がどんぐりや土器でウホウホしてる時代に中国は鎧着て春秋戦国時代…」から始まる、文明と歴史に関する議論
    kash06
    kash06 2024/12/31
    歴史と書くくらいなので、文により具体的に履歴を残すと、人間関係から生じる社会をリアルに想像できるが、どうしても書を残さなかった文明に対する我々の想像力が限定的になってしまうのも感じる。
  • ゴミの中から鳥羽城の未発見絵図 災害史研究のマスターピースを地域の連携プレーで救出

    発見された鳥羽城の修復願絵図。寛政12(1800)年の暴風雨による海に面した石垣の被災状況が記されている(盆野行輝さん提供) 三重県鳥羽市のリサイクル施設に持ち込まれた紙ごみの束から、江戸時代に暴風雨に見舞われた鳥羽城石垣の被災状況を幕府に報告した「修復願絵図」が発見された。紙ごみを仕分けしていた施設作業員が「価値のある史料かも」と機転を利かせ、鳥羽郷土史会に持ち込み、同会を偶然訪れた研究者が「探していた未発見絵図だ」と確認。海に面した鳥羽城がどう災害に立ち向かったのか、その記録が鮮やかによみがえった。 捕鯨など漁業関連史料も7月13日、家庭から出るリサイクルごみの受け入れなどを担う「鳥羽市リサイクルパーク」を、名古屋市在住の50代男性が訪れた。持ち込んだのは、史料の束や写真のネガ、古いパンフレット類などが入った段ボール箱。親が住んでいた鳥羽市内の空き家を整理した際の処分品だった。 対応し

    ゴミの中から鳥羽城の未発見絵図 災害史研究のマスターピースを地域の連携プレーで救出
  • 誓約書 | 四国銀行

    この誓約書は、四国銀行の前身である第三十七国立銀行が、お札の厳正な取扱いを遵守すべく、三浦頭取以下全従業員23人が、連署して血判を押したものの一部です。 取引に不正があった場合は私財で弁償し、さらに切腹することを誓ったもの。銀行員としてだけでなく社会人としての倫理観、責任感の重さを伝えるもので、四国銀行の至宝として伝えられています。

    誓約書 | 四国銀行
    kash06
    kash06 2024/11/24
    日本での銀行業の歴史だなぁ……はてのさん、介錯でもする気!?
  • どうなる大阪の遺跡発掘・保存 二重行政解消で解散の市文化財協会、黒字経営でも容赦なし

    大都市である大阪の地中には、いまだ解明されず謎に包まれた遺跡が数多く眠っている。7~8世紀に都が置かれ、「日」という国号や元号の使用が始まったとされる国指定史跡「難波宮跡」など、歴史的に重要な遺跡も多い。これらの遺跡を発掘・調査してきた大阪市の外郭団体「市文化財協会(市文協)」が今年度末で解散する。地域政党「大阪維新の会」が進めてきた大阪府市の二重行政の解消による余波だ。市文協が得意とする遺物の保存処理技術も継承されなくなる恐れがあり、今後の文化財保護行政の課題になりそうだ。 類似・重複のサービスと判断市文協は大阪市内の文化財の調査研究と保存、文化教育の向上発展を目的に昭和54年に設立され、大坂城跡や難波宮跡など各遺跡の発掘や発掘成果の普及啓発業務を担ってきた。 市文協の解散は平成25年、当時の橋下徹市長らが進めた二重行政の解消を目的とする府市統合部会議で方針が決まった。市文協と、府

    どうなる大阪の遺跡発掘・保存 二重行政解消で解散の市文化財協会、黒字経営でも容赦なし
  • 蒲生氏郷と茶道 会津の茶道と茶陶の歴史紹介する企画展|NHK 福島県のニュース

    鶴ヶ城を築いた武将 蒲生氏郷の茶道の功績やその歴史を紹介する企画展が会津若松市で開かれています。 蒲生氏郷は安土桃山時代に会津地方を治め、鶴ヶ城を築城するなど、いまの会津の礎を築いた武将として知られる一方、すぐれた茶人としても知られています。 この企画展は会津の茶道を発展させた氏郷の功績などを紹介しようと県立博物館が開き、茶器など20点あまりが展示されています。 このうち、千利休の養子だった千少庵の肖像画は、17世紀ごろ、江戸時代に描かれたとされています。 千少庵は豊臣秀吉に利休が切腹を命じられたあと氏郷を頼って一時、会津に滞在していたとされ、氏郷の尽力で京都に戻って利休の茶の湯を継いだことから、いまに続く茶道と氏郷の関わりがうかがえる貴重な資料となっています。 また、会津郷焼の「灰釉茶碗 銘 会津川」は茶碗の手前側を示す「前押」と呼ばれる指型の模様が特徴です。 学芸員の渡邉歩さんは「茶

    蒲生氏郷と茶道 会津の茶道と茶陶の歴史紹介する企画展|NHK 福島県のニュース
    kash06
    kash06 2024/10/15
    会津(約)百万石のレオン公と茶の湯。
  • 横浜で子孫捜し求め 五稜郭の戦い参戦・フランス人男性 親族が墓参 情報提供呼び掛け「日本で暮らしているかも」:東京新聞デジタル

    戊辰戦争の五稜郭の戦いで旧幕府軍に付いたフランス人男性の1人が150年前、日人女性との間に一人息子を残し、横浜で34年の生涯を閉じた。墓参のため、今月初めてフランスから来日した親族は日にいるかもしれない子孫を捜し求め、情報提供を呼び掛ける。(神谷円香)

    横浜で子孫捜し求め 五稜郭の戦い参戦・フランス人男性 親族が墓参 情報提供呼び掛け「日本で暮らしているかも」:東京新聞デジタル
  • 【速報】東大寺で歴史的発見!奈良・平安・鎌倉3つの時代の「僧坊」の跡 平清盛“南都焼討”の痕跡も(読売テレビ) - Yahoo!ニュース

    奈良の世界遺産「東大寺」で、大仏殿の北側の地区から、奈良・平安・鎌倉の3つの時代の「僧坊」に使われていたとみられる建物の跡が発見されました 大仏殿の北側のエリアでは、10年前から史跡整備が行われていて、おととしからは川の護岸工事が実施されています。 このエリアには、かつて、僧侶の住まいである「僧坊」や、仏教の教義などを学ぶ建物があったとされていて、今年6月からエリア内の別の場所の工事を行っていたところ、建物の存在を裏付ける大きな「礎石」が見つかりました。礎石はもともと僧侶の宿舎「僧坊」があった場所で発見されていて、部分的に火災の痕跡が確認できたことから、何度も同じ位置に建物が建て替えられていたとみられています。 東大寺は大仏殿の建立から1300年近くの歴史で、何度も火災によって敷地内の建物が消失していますが、今回見つかった礎石とその周辺からは、1180年に平清盛が命じた「南都焼討(やきうち

    【速報】東大寺で歴史的発見!奈良・平安・鎌倉3つの時代の「僧坊」の跡 平清盛“南都焼討”の痕跡も(読売テレビ) - Yahoo!ニュース
  • nix in desertis:書評:『南北朝時代』『隋』(中公新書)

    ・『南北朝時代』(会田大輔,中公新書,2021年) 中国の南北朝時代の概説書。講談社選書メチエの『中華を生んだ遊牧民』との違いは,あちらは鮮卑に焦点を当てつつ後漢代から北魏までの華北を扱っているのに対し,こちらは時代が南北朝時代のみで短い代わりに南朝も扱っている。北魏についての話題は似通っているが,当然あちらの方が濃い。両方読むのを勧める。北魏については主張が違うところもある。あちらのでは,魏の国号を採用し土徳をを採用したことについて,北魏が三国魏を継承する形をとったためと説明していたが,こちらは鮮卑は三国魏をも否定していて,火徳の後漢の後継王朝であることを示すため土徳の魏としたという説を採っている。 かたや南朝宋は東晋の時代にあった再統一への野望が薄れ,江南を拠地とする諦めに沿った改革が進んでいく様子が描写される。西晋の滅亡によって伝統が失われたため,宮中祭祀等で”それっぽい新たな伝

  • 藤井聡太王位が解いた「200年前の詰将棋」に残されたナゾ…実は込められた意味があった バン記者・樋口薫リポート:東京新聞デジタル

    将棋藤井聡太王位(22)が今月9日、静岡県牧之原市を訪問した際、市内の旧家で今春見つかった200年以上前の詰将棋(つめしょうぎ)が披露されました。藤井王位が一目で解いてみせたこの詰将棋に、解答とは別の謎が秘められていたことが、その後の調べで分かりました。愛好家が「約20年ぶりの大発見」と興奮し、藤井王位も「気づかなかった」と驚いた、図面に隠された秘密とは―。東京新聞連載「バン記者・樋口薫の棋界見て歩き」の「盤外編」としてお伝えします。(樋口薫)

    藤井聡太王位が解いた「200年前の詰将棋」に残されたナゾ…実は込められた意味があった バン記者・樋口薫リポート:東京新聞デジタル
    kash06
    kash06 2024/09/14
    見事な記事。発見されたのが21世紀で、このタイミングで歴史を塗り替えた大名手が牧之原にやってきて解かれて、かつ番記者に引き継がれて来歴が明らかにされていく流れはとても面白く、作者もきっと満足であろう。
  • 新紙幣の原料9割が……いまは人口1人、高知の秘境で解き明かす「なぜミツマタ国内調達は困難になった?」

    新紙幣の原料9割が……いまは人口1人、高知の秘境で解き明かす「なぜミツマタ国内調達は困難になった?」
    kash06
    kash06 2024/09/11
    記事も面白かったし、シャーク近藤さんのコメントを読んでさらに完結した感じ。(四国の情報が得られる、はてなブックマーク!
  • 「竜」の字体が「龍」よりも古いというトンデモについて|nkay

    楷書の「龍」という形は殷墟甲骨文に見られる文字を継承したもので、「竜」という形は早くとも漢代以降に作られたものだが、「竜」が「龍」より古くから存在するというトンデモが存在する。 「竜」が「龍」より古いというトンデモには全く根拠がないが、ほとんどの人は漢字の歴史について無知なのと、このトンデモが当なら意外なので(逆に)、一定数の人が信じているようである。 実際には、「竜」が「龍」より古いなどということは無い。これは「最終的には「龍」も「竜」も同じ甲骨文字に由来するのだからどちらかが古いと言うことはできない」というような表現的問題ではなく(それも一理あるかもしれないが、ここではどちらかが古いという表現を受け入れよう)、「竜」が「龍」より古いというトンデモが描いている歴史が決定的に間違っているという意味である。 この記事で「竜」「龍」の歴史を再確認することで、トンデモの歯止めになれば幸いである

    「竜」の字体が「龍」よりも古いというトンデモについて|nkay
  • 戦地で新たに発見された写真 身元をたどって【追記あり】 | NHK | WEB特集

    和服姿でほほえむ女性の写真。 去年、日から約3200キロ離れた島国パラオで見つかりました。太平洋戦争で亡くなった旧日軍の兵士の遺骨とともに、土の中で眠っていました。 この旧日兵と、写真にうつる女性はだれなのでしょうか。特定に奔走する専門家を取材しました。(宇都宮放送局記者 梶原明奈) ※13日夜の記事公開後、「写真は俳優の水戸光子さんではないか」という情報が複数寄せられ、追加取材をしました。詳細を文最後に追記しています。

    戦地で新たに発見された写真 身元をたどって【追記あり】 | NHK | WEB特集
    kash06
    kash06 2024/08/14
    写真の背景で、当時流行った撮影方法とかわかるのか……なるほど。
  • 織田信長が敵に降伏促す文書見つかる“政治行動がわかる資料” | NHK

    天下統一を目指し勢力を拡大していた織田信長が京都に入ってまもない時期に、敵対する武将に降伏を促す文書が見つかりました。調査した東京大学史料編纂所の研究者は高圧的な態度で降伏を迫る信長の政治行動がわかる貴重な資料だとしています。 その結果、武力で天下を治めるという意味の「天下布武」という朱印などから1570年に書かれた文書で織田信長が名門・細川家の細川昭元に宛てたものと結論づけました。 当時、信長は天下統一を目指して勢力を拡大するなかで将軍、足利義昭とともに上らくしてまもない時期で今の大阪・摂津で昭元が立てこもる城に攻め込んでいました。 文書では、昭元に対して降伏するよう促し、その場合は播磨などの領地を与えることや、四国については影響力を持っていた昭元を特別に扱うとしています。 昭元がこうした条件をのんだかはわかっていませんが、文書の翌年には、信長に降伏した記録が残っています。 村井准教授は

    織田信長が敵に降伏促す文書見つかる“政治行動がわかる資料” | NHK
    kash06
    kash06 2024/08/14
    書き出しが「条目」から始まってるのかな。なるほど、高圧的な交渉というわけかも。
  • 秀吉が弟 秀長に宛てた書状 “関係性うかがえる貴重な資料” | NHK

    織田信長の後継者争いをめぐって起きた小牧・長久手の戦いの際に、羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉が、弟の秀長に宛てた書状が東京大学史料編纂所の研究者による調査で確認されました。兄弟の関係性がうかがえる貴重な資料だとしています。 書状は、長野県須坂市にある田中家博物館で見つかり、東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授が調査にあたりました。 その結果、秀吉の直筆とみられる花押などから、能寺の変のあと、織田信長の後継者争いをめぐって起きた1584年の小牧・長久手の戦いの際に、戦いに参加していた弟の秀長に送った書状と結論づけました。 秀吉の書状では、信長の次男、信雄がおさめていた尾張の黒田や一宮を攻め火を放ったと書いていて、当時、近くにいなかった秀長に対し、秀吉は「きっと煙が見えただろう」と冗談を交えて、敵に与えた損害を伝えています。 また、秀長に対し、敵対する織田軍や徳川軍に備えて、港が近い伊勢の城に行き

    秀吉が弟 秀長に宛てた書状 “関係性うかがえる貴重な資料” | NHK
  • 8月15日に終わった戦争などない 「平和報道は9月にシフトを」:朝日新聞デジタル

    毎年8月にメディアにあふれる風物詩的な戦争・平和報道は、半ば揶揄(やゆ)を込めて「8月ジャーナリズム」とも呼ばれてきた。加害性の視点の欠如や、内容の定型化も指摘されて久しい。そもそも「8月15日=終…

    8月15日に終わった戦争などない 「平和報道は9月にシフトを」:朝日新聞デジタル
    kash06
    kash06 2024/07/27
    大戦時のメディア史でお馴染みの佐藤卓己先生。全てが当てはまる正解の話ではなく、何が選ばれたのかに対する自覚の話かもしれない。
  • ■鎌倉の廃寺 鎌倉歴史文化交流館 - コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

    鎌倉歴史文化交流館で行われた「鎌倉の廃寺」では、歴史的に存在が明らかな廃寺について各廃寺からの出土品や史料の展示が行われました。(2024/3/21~6/29)撮影可能な資料の写真を整理し、今後の鎌倉散策の参考として活用できるようまとめました。 撮影した写真を章別に掲載。2章、3章はパネルのみ撮影可。 これまで「○○跡」として訪れた場所が、この企画展で取り上げられた「廃寺」であることがわかりました。当初「廃寺展」と聞いて、これまで聞いたこともない寺院を鳥毛ているのだと思い、なじみがないと思っていましたが、鎌倉散策をしながらそのほとんどの場所に訪れていました。 今後、再訪した時に、こちらの展示と照らし合わせるために… 時代別廃寺の配置 ➊~➎ 第一章 いにしえの寺院跡─古代から鎌倉幕府滅亡まで─ ➊~➎ 第二章   律の廃寺―出土した名品のかずかず― ➊~➍ 第三章   室町時代に華やいだ鎌

    ■鎌倉の廃寺 鎌倉歴史文化交流館 - コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記
  • “すずらんの兵士”を探して―「北海道兵、10805人の死」 | NHK北海道

    「もし僕が北海道に生きて帰れたら、君に、すずらんの花を送るね」 沖縄戦で、ひめゆり学徒隊の看護学生にそう言い残し死んでいった、北海道出身の兵士がいた。 10805人の北海道兵が死んだ沖縄戦から、78年。 日の端と端、北海道と沖縄で、“すずらんの兵士”の生きた痕跡を探した。 (番組ディレクター 趙 顯豎) 「北海道兵、10805人の死」 初回放送:2023年8月11日 6月 オホーツク 2023年6月。オホーツクの海は青黒く、遠くの方から低く静かな波を立てていた。 その朝、私は宗谷の海岸線を走る路線バスに乗って、東へ向かっていた。 目的地は、浜頓別、というまだ訪れたことのない町だった。 浜頓別での私の仕事は、ひとことでいえば、“人探し”にちがいなかった。 数日前、町役場に前もって電話をかけたときも、「用件」を丁重に尋ねられるや、「人を探しているんです」と確かにいった。が、そのあとあわてて訂

    “すずらんの兵士”を探して―「北海道兵、10805人の死」 | NHK北海道
    kash06
    kash06 2024/06/24
    北海道兵が1万人も戦死してるとは、全く知らなかったなぁ……。
  • 経度の歴史 - Wikipedia

    経度 経度の歴史(けいどのれきし)では、経度にまつわる歴史について記述する。 経度という概念は緯度とともに古代から存在したが、基準に基づく経度の測定は緯度と比べて難しく、正確に求められるようになるまでには長い年月を要した。 また海上で航海に必要とされる精度で経度を求めることは歴史的に困難な課題だったが、クロノメーターの開発により実用上解決された。経度の基準も、ロンドンのグリニッジ子午線を基準(初子午線)として世界中で採用された。 エラトステネスの地図(19世紀に再現されたもの) 地図を経線と緯線で区切って、その座標で各地点の位置を表すという発想は古くから存在した。古代に地球の大きさを求めた地理学者エラトステネスは、シェネ(アスワン)とアレクサンドリアを結んだ線を基準として、それと平行に数の直線を引いた地図を作成した[1]。ただしこの線の間隔は現在の地図のように等間隔ではない。また、基準

    経度の歴史 - Wikipedia
    kash06
    kash06 2024/06/23
    古代から中世は地理や世界に対する概念を持つところから始まり、近代になっても観測方法や手段も含めての技術向上が不可欠で、現代となり地球そのものの楕円形モデル、プレート理論による大陸移動も加味。凄い。
  • 魔女狩りはなぜ近世ヨーロッパで最盛期を迎えたのか?池上俊一『魔女狩りのヨーロッパ史』 - 明晰夢工房

    魔女狩りのヨーロッパ史 (岩波新書) 作者:池上 俊一 岩波書店 Amazon 魔女狩りという言葉は、しばしば「中世ヨーロッパ」とセットで用いられる。魔女狩りなどするのは迷信深い中世人だろう、という先入観があるのだろうか。だが『魔女狩りのヨーロッパ史』によると、魔女狩りがピークを迎えた時期は1580~90年前後、1610~30年前後で、いずれも近世になる。15世紀以前にも魔女狩りは行われているが、個人に対する裁判が中心で、大規模な迫害はなかった。 近世もまだまだ宗教の時代であるとはいえ、中世ほど魔女狩りにふさわしい時代ではないように思える。ルネサンスを経て科学技術も進歩し、迷信も少しは薄れた印象のある近世ヨーロッパで、なぜ大規模な魔女狩りがおこなわれたのか。『魔女狩りのヨーロッパ史』の第7章を読むと、むしろ近世だからこそこの悲劇が起きてしまったことがわかる。 このの第7章『「狂乱」はなぜ

    魔女狩りはなぜ近世ヨーロッパで最盛期を迎えたのか?池上俊一『魔女狩りのヨーロッパ史』 - 明晰夢工房
    kash06
    kash06 2024/06/02
    近世の宗教統制という事であれば、日本あるいは東洋ではどのように対比されるのだろう。中世の土地支配のうち重層性を重視するか、宗教勢力の直接統治を重視するか、近世は何を解体したのかみたいな……?