8月26日、午前11時29分から約2分間、中国の情報収集機(Y-9)1機が、長崎県男女群島の領空を侵犯したことを確認しました。 これを受け、同日午後5時20分頃から、岡野正敬外務事務次官が施泳(し・えい)在京中国大使館臨時代理大使を外務省へ召致し、極めて厳重に抗議するとともに、再発防止を強く求めました。 これに対して、中国側からは、本国に報告するとの反応がありました。
2012年に長崎県対馬市の観音寺から盗まれその後韓国で見つかった、県の有形文化財に指定されている仏像「観世音菩薩坐像」をめぐっては、韓国中部にあるプソク(浮石)寺が「中世の時代に倭寇に略奪されたものだ」として所有権を主張し、仏像を保管する韓国政府に引き渡しを求めて2016年4月に韓国で裁判を起こしました。 1審の地方裁判所は、プソク寺への仏像の引き渡しを命じましたが、2審の高等裁判所はことし2月、観音寺が20年以上公然と仏像を所有してきたとして、1審とは逆に、引き渡しは認められないとする判決を言い渡し、原告側がこれを不服として上告していました。 韓国の最高裁判所は26日「日本の民法上、観音寺が法人格を得てから20年たった1973年の時点で、仏像の所有権を取得したと認められる」として、原告側の訴えを退け、仏像の所有権は観音寺にあると認める判決を言い渡しました。 7年半にわたった裁判は判決が確
天然痘や大雨被害からの復興祈願か 金屋神社の参道で道程示す5基確認 長崎県波佐見町金屋郷の金屋神社の参道で、県内では初めてとなる「町石(ちょういし)」という道程を示す史跡5基が確認された。1700年前後の建立と推定され、当時流行した感染症や自然災害からの復活を祈願したとみられる。 町教委によると、町石は参道に沿って1町(約109メートル)ごとに建てて道程を示すもので、佐賀県の嬉野市や太良町などで存在は確認されていたが、長崎県内での確認例はなかった。 大村藩の「郷村記」には、金屋神社の第一鳥居から奥御殿まで(計23町)に1町間隔で町石が建てられたと記されている。1700年ごろに波佐見一帯で天然痘の流行、大雨被害の記録が残っており、これらの救済祈願のため神社参道に町石を建てたとみられる。本来なら23基の町石が残っているはずだが、明治以降、特に太平洋戦争後、町石の価値が分からないまま、道造りなど
1986年生まれ佐世保在住ライター。おもに地元の文化や歴史、老舗や人物などについての取材撮影執筆、紙媒体のお手伝いなど。演劇するのも観るのも好き。猫とトムヤンクンも好きです。 前の記事:西海楽園〜バブルに花開いたあの頃をふりかえる > 個人サイト ヤマモトチヒロのブログ 戦後から続く佐世保のロングセラー 豆乳といえば、こちらの紙パックタイプのものを思い浮かべる方が多いだろう。 毎日続ける大豆の健康 しかし、長崎県佐世保市で昔から販売されている豆乳はこちらである。 その名も「佐世保豆乳」である まず特徴的なのはロケット容器だ。チューチュー棒、チューペット、ボンボン、ポッキンアイス…地域や年代によってさまざまな呼び名があるかもしれないが、あのポキッと折れるアイスを連想してしまう。あと、駄菓子屋で売られていた舌の色が変わっちゃいそうな色をした甘い液体とかを。大人が見れば懐かしさ、子供が見れば物珍
誠信交隣「子孫探し慰霊祭を」 朝鮮王朝が外交使節「朝鮮通信使」を日本に派遣するなど朝鮮半島との交流が盛んだった江戸時代、日朝間の交易や外交に携わった対馬藩の役人のものとみられる墓石が韓国釜山市の住宅街で見つかった。墓石を保管する寺の関係者は「子孫を探して慰霊祭を行い、両国に平和と交流をもたらした時代に思いを巡らせたい」と話している。 「私の寺に日本人の墓石があり、子孫を探したいので力を借りたい」 釜山市西区にある観龍寺(クァンヨンサ)の天上(チョンサン)住職(44)から依頼を受け、現地を訪れた。墓石は高さ約60センチ、幅約25センチ、奥行き約20センチ。正面に「謙應恂虚居士」、右側面に「俗名 住永次右衛門」、左側面に「文政五壬午年正月初三日(1822年1月3日)」と記してある。 墓石があったのは、日本統治時代(1910~45年)の日本人共同墓地跡にできた同市西区峨媚洞(アミドン)にある住宅
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館及び国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館が所蔵する原爆に関する図書を検索できます。体験記閲覧室内では開架図書は自由にご覧いただけます。閉架図書はカウンターにお申し出ください。なお、貸出は行っておりませんので、ご了承ください。
江戸時代の国際関係は,幕府の対外政策によって交流相手国を,中国(明・清),オランダ,朝鮮,琉球の4か国に限りました。このうち将軍と対等に国書を交換したのは,朝鮮国王だけでした。中国,オランダとは長崎における通商関係のみで外交関係は成立せず,琉球は「異国扱い」としながらも事実上は薩摩藩(島津氏)の支配下に置かれていたためです。 昭和40年から昭和44年にかけて発表された中村栄孝氏の研究書(『日鮮関係史の研究』上中下巻,吉川弘文館)は,日本の歴代政権が東アジア国際社会に果たした役割について言及したものです。特に下巻の近世編は,日本が中国の冊封(朝貢関係)に入ることを前提とせずに,朝鮮との間に独自の外交を展開させていたことを指摘し,固定化された鎖国史概念を一変させる画期的な成果として注目されました。江戸時代を通じて12回に及んだ朝鮮国王の外交使節団通信使がもたらす国書は,常に対等な書式をもって書
県内で初めて鉄製武具出土 佐世保市宮津町の鬼塚古墳から出土した鉄製武具の一部。県内に500基ほど残る古墳から鉄製武具が出土したのは初めて よろいの模型を前に、出土品について説明する松尾さん=佐世保市役所 2013年に発掘調査をした佐世保市宮津町の鬼塚古墳の出土品について、市教委は27日、鉄製武具の一部だと判明した、と発表した。県内に500基ほど残る古墳から、鉄製武具が出土したのは初めて。当時の大和政権とのつながりを示す重要な物証とされ、市教委は「意義深い発見」としている。 出土品を県埋蔵文化財センターなどで調査、分析したところ、鉄製のかぶとやよろいの一部が含まれていた。形状やつくりから国内の中央で作られ、何らかの理由で地方に分配された可能性が高いという。 鬼塚古墳は直径17メートルの円墳で、大村湾に面した民有地の果樹園にある。ほかに鉄剣や鉄おの、青銅鏡なども出土。いずれも副葬品で、大村湾の
原爆被爆者で、何十年も被爆者の地位向上などのため活動し、 署名活動をしたり、デモに参加したという祖母。 滅多に他人の批判や悪口を言わなかったけれど、そんな祖母が生前に一度だけ、 明確に「許せなかった」話をしてくれたことがあった。 テレビで被爆者のドキュメンタリー映像を見ていた時のこと。 なんとなく、「やっぱり被爆者手帳って嘘ついて持ってる人結構いるの?」と聞いてみた。 原爆被爆者に対する補助はかなり手厚く、年金ならぬ被爆者に対する援助のために 死にかけの親を何とか生かしてくれと頼む家族もいるくらいの代物である。 祖母はあっさりと、「そりゃそうよ」と言った。 「あの人原爆に遭うてないよねって人もおったよ。でも証人がおれば手帳貰えたからね」 「なんという税金泥棒。そういう人ムカついたりせんかった?」 「そりゃ良い気分はしなかったけど、でもねえ、もっと許せん人がおったけえね」 おばあちゃんでも許
アイテム 1 の 2 4月29日、フランス海軍の艦艇「ミストラル」(写真)が、長崎県の海上自衛隊佐世保基地に入港した(2017年 ロイター/Nobuhiro Kubo) [1/2] 4月29日、フランス海軍の艦艇「ミストラル」(写真)が、長崎県の海上自衛隊佐世保基地に入港した(2017年 ロイター/Nobuhiro Kubo) [佐世保市 29日 ロイター] - フランス海軍の艦艇が29日、長崎県の海上自衛隊佐世保基地に入港した。このあと日本、英国、米国の部隊を乗せ、4カ国で共同訓練をしながら米領グアムへ向かう。南シナ海や朝鮮半島問題でアジア太平洋地域の緊張が高まる中、日米だけでなく、欧州諸国もこの地域に強い関心があることを示し、4カ国で中国や北朝鮮をけん制する狙いがある。
軍人飲んだ?ビール瓶次々 戦時中、普賢岳山頂に極秘レーダー基地 1900年代前半か「DAINIPPON」の刻印 [長崎県] 雲仙市の雲仙・普賢岳(1359メートル)の山頂付近で、地面の土中から空のビール瓶が相次いで見つかっている。刻印などから1900年代前半に製造された瓶とみられる。山頂付近には太平洋戦争中に陸軍の「電探(レーダー)基地」があったことから、当時の隊員が飲んだ形跡ではないか、などと謎を呼んでいる。 出土する瓶には「DAINIPPON BREWERY」と刻印がある。日本では1906年、札幌麦酒、日本麦酒、大阪麦酒の3社の合併でシェア7割を誇る「大日本麦酒」が発足し、49年に分割された。うち1社を引き継ぐサッポロビール(東京)に瓶の写真を送って確認を依頼したところ、「大日本麦酒の瓶で間違いない」という。 雲仙お山の情報館(雲仙市)によると、普賢岳の山頂付近にあったレーダー基地
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筑波大学名誉教授 中 川 八 洋 毎年八月になると、日本の新聞・テレビには、気が滅入るほど、実にうんざりする。お決まりの政治的に大偏向した反戦・反核の洗脳キャンペーンが、“報道”を擬装して展開されるからだ。これらの「報道」では、“国防なくして国民の生命も財産も守れない”常識は消され、日本の近現代史の歴史はアジプロの手段として嘘八百が常態となる。 戦後七十年、今では日本国民は、歴史の真実を弊履のごとく捨てて気にならない。この異様な反歴史の状態は、日本が国家であることを止めていることからも生じていよう。流浪の日本人たちが屯する日本列島をたまたま“日本国”と称しているに過ぎない。日本は亡国に至りつつあるのではなく、すでに亡国した国家の形骸がゾンビのように惰性で日常を紡いでいる。 要は、日本国民が歴史をないがしろにして省みることがない事象は、亡国の民となった証しとも言える。妄語「東京裁判史観」に酔
福江城(別名・石田城)は、肥前国(長崎県)福江藩、最後の藩主、五島盛徳(ごとう・もりのり)時代の文久3(1863)年6月、15年の歳月と2万両の公費と延べ5万人を動員して、五島列島・福江島に五島氏の居城として完成する。城郭は東西291メートル、周囲2246メートル、城壁の三方を海に囲まれた日本で唯一の海城だ。 幕末期の海上防衛や異国船の来訪に備え、徳川幕府に願い出て築城を許可されたこともあり、城内には台場(砲台)が設けられていた。松前城(北海道松前郡松前町)とともに、幕末に築城された貴重な城郭の1つである。 縄張は本丸、二ノ丸、北ノ丸からなり、内堀、外堀がめぐらされ、天守は設けられず、代わりに本丸の二層櫓が天守の役目を担った。また、城壁には矢を放つ目的と、監視を兼ねた3角の矢狭間(やざま)があり、広角に攻められるように、外に向かって開いているのが特徴だ。 江戸時代最後に築かれた城のため、「
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