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  • 「三好康長(笑岩/咲岩)さんが有終の美を飾った週刊ビジュアル戦国王(100)」総監修:小和田哲男さん(ハーパーコリンズ・ジャパン) - 肝胆ブログ

    週刊ビジュアル戦国王の最終号、三好康長さんを筆頭に三好一族が大トリを飾っていてかんたんしました。 sengoku-oh.jp 康長さんを筆頭に、三好義興さん、三好義賢さん、篠原長房さん、三好長逸さん、三好政康さん、岩成友通さん……と三好一族が勢ぞろい。 (紹介されている内容は定説ベースです) ここにきてどんな読者層を対象にしていた雑誌だったんだろうと思わざるを得ない采配ですね(笑)。 大半の読者からしたら「三好●●って何人おんねんややこしい!」くらいにしか思っていただけないのではと不安になってしまいます。 とは言え、確かに三好康長さんは戦国時代の濃密な部分を味わい尽くしたという意味では「戦国王」の名に相応しい人物の一人かもしれません。 きっと義興さんや実休さんも、康長さんの方が目立ってても納得していただけるのではないでしょうか。 三好康長さんは三好元長さんの弟とされていて、細川家の内乱、三

    「三好康長(笑岩/咲岩)さんが有終の美を飾った週刊ビジュアル戦国王(100)」総監修:小和田哲男さん(ハーパーコリンズ・ジャパン) - 肝胆ブログ
    k-holy
    k-holy 2018/05/25
    「三好康長さんは戦国時代の濃密な部分を味わい尽くした」に同感。『きょう、』の登場人物でも三好康長に一番感情移入できたのですが、ああいう役回りになったのは「ヒットマンっぽい噂」からだったのかな。
  • 「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(後編)澄元方の上洛戦敗退と将軍義稙の淡路出奔事件の顛末 - k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

    以前の記事 『「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(中編)将軍義尹の甲賀出奔事件の背景』 では、永正10年(1513)に将軍がわずかな供だけを連れて突如京都から出奔した珍事件の背景や、細川高国が京兆家当主となってから内衆の再編が進んでいたことなどを紹介しつつ、「義稙」と改名した将軍がどのような政権構想を抱いていたのかを探りました。 そして、大内義興が帰国した経緯については独立した記事として 『大内義興が帰国に至った背景―在京中に起きた「安芸国人一揆」と「有田合戦」の関係、遣明船の永代管掌権を獲得した件について』 で考察しました。 今回は主にその後の話、阿波より機を窺っていた細川澄元とその与党による上洛戦を通じて起きた将軍義稙と細川高国の関係の変化、そして澄元と将軍義稙を仲介した赤松義村とその重臣・浦上村宗の対立を併せて見つつ、なぜ高国と対立して出奔した将軍義稙の復帰が叶わず、高国

    「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(後編)澄元方の上洛戦敗退と将軍義稙の淡路出奔事件の顛末 - k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ
  • 第二十二回 大内義興 ~最強の守護大名~ : 応仁の乱以降の畿内史

    今回は大内義興です。 彼は一人で筑前豊前周防長門安芸石見、それから山城の守護をも兼ねた、最強の守護大名でした。 1477年、義興は応仁の乱の最中の京都にて、大内政弘の子として誕生しました。1495年に父が死去すると、18歳で大内家の家督を継いでいます。1500年には前将軍の足利義材(当時は義尹)が坂の戦いに敗北して周防に落ち延びてきたため、義興はこれを保護しました。すると管領の細川政元は義興が義材を擁して上洛することを恐れ、1501年に後柏原天皇から綸旨を獲得して大友家や尼子家・毛利家らに義興の討伐を命じました。こうして義興は「朝敵」ということになりましたが、西では大友家に大勝し、東でも毛利弘元(元就の父)を味方に引き入れることに成功しています。 石見や九州で戦闘が続く中の1507年、京都で永正の錯乱が発生し、足利義澄の元で幕政を牛耳っていた細川政元が暗殺されました。その後も細川氏内部で

    第二十二回 大内義興 ~最強の守護大名~ : 応仁の乱以降の畿内史
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