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戦犯に関するinterferobserverのブックマーク (2)

  • 元日本軍兵士 木に括りつけた中国人を銃剣で刺したと明かす

    戦後生まれが1億人を超え、総人口の8割近くに達している。第二次世界大戦終了から68年。を直接知る者は年々減り、当時の実態を証言できる者は限られてきた。今こそ元日軍兵士たちの“最後の証言”を聞いてみよう。ここでは元陸軍第62師団独立混成第4旅団独立歩兵第13大隊兵士の近藤一氏(93)の証言を紹介する。 * * * 〈近藤氏は大正9年生まれ。昭和15年12月、20歳で徴兵。中国に送られ、山西省遼県(現・左権県)の陸軍第62師団独立混成第4旅団第13大隊に歩兵として配属。昭和19年8月沖縄に移り、20年4月~6月の激戦を経験。〉 中国に着任して最初の4か月は現地で初年兵教育を受けた。今にして思えば、この現地教育は「人を殺す人間になるための教育」だった。 ある時、木の幹に括りつけた中国人2人の前で下士官が「刺殺訓練をする」と言った。私たち初年兵(約70人)は彼らから30メートルほど離れて二列縦隊

    元日本軍兵士 木に括りつけた中国人を銃剣で刺したと明かす
  • 元陸軍大隊兵長 雇った中国人の男性に助けられた経験を語る (NEWS ポストセブン) - Yahoo!ニュース

    太平洋戦争終了から今年で68年が過ぎた。戦争に行った者は年々減っている。戦地ではどのような光景が展開されたのか。今、彼らの証言を聞いてみる。。 証言者:藤原重人(88) 元陸軍第131師団独立歩兵第596大隊兵長 大正13年生まれ。昭和19年、陸軍第27師団支那駐屯歩兵第2連隊に入隊。中国の九江から重慶に向けて行軍。途中で作戦が頓挫したため第131師団歩兵部隊に転属。楽昌に転進し、行軍中に終戦を迎えた。 * * * 昭和20年2月に始まった行軍はただただ厳しかった。楽昌まで2000km以上に及ぶ道中で補給はほとんどなく、糧や水はすぐに底をついた。 最初こそ手持ちの塩と現地住民の米を物々交換したが、それもなくなるとべ物を強奪し、若い男を人夫として徴発するしかなくなった。 自分も農家の生まれだ。糧を取られ、働き手を奪われる辛さはわかる。でも生きるためにはしょうがない。勘弁し

    interferobserver
    interferobserver 2013/09/16
    無理矢理連れて行くことを当時は「雇う」って言ってたのかな。
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