まえがき 解説 原子力安全委員会の役割 原子力の基礎 避難のあり方 官邸などでの体験 そもそもの失敗は 自分の役割が何かを理解せずに・・・ 総理視察同行の理由 総理が現地に行くべきだったか・・・ 総理の質問あれこれ 総理への説明役として同行することを・・・ ◇◇の一つ覚え 少しはわかるのかなぁ・・・ ◇◇は理解できない これには参りました・・・ マッカーサー気取り マッカーサーの真似をしたかった・・・ 皆に挨拶もせずに あのとき免震重要棟の皆に挨拶してれば・・・ 帰りのヘリの中で 帰りのヘリの中ではみな爆睡してました・・・ 官邸で迷子になって 官邸でいきなり放り出されて私はどうすれば・・・ 経産官僚の悪口 保安院が消滅していたのでその代わりを務め・・・ 見解は正確に? 見解をなるべく正確に伝えようとすると・・・ 再臨界は核爆発? 再臨界すなわち核爆発と考えるなん
東日本大震災の発生から4年目となる3月11日、東京・千代田区の国立劇場で、政府主催の「東日本大震災4周年追悼式」が行われた。 東日本大震災から4年が経ちました。ここに一同とともに、震災によって亡くなった人々とその遺族に対し、深く哀悼の意を表します。 4年前の今日、東日本を襲った巨大地震とそれに伴う津波により、2万人を超す死者・行方不明者が生じました。テレビに映った津波の映像は、決して忘れることのできない本当に恐ろしいものでした。 死者・行方不明者の中には危険をかえりみず、人々の救助や防災活動に従事した人々があったことが、今も痛ましく思い出されます。被災地で、また避難先で、被災者の多くが今日もなお、困難な暮らしを続けています。特に年々、高齢化していく被災者の健康は深く心にかかります。 さらに、この震災により原子力発電所の事故が発生し、放射能汚染地域の立ち入りが制限されているため、多くの人が住
この原稿がアップされるのは、東日本大震災からちょうど4年を迎える日だ。 この週末には、反原発統一行動の国会前大集会に参加してきた。 多くの人が寒い中、国会前に集まり「原発いらない!」「再稼働反対!」の声を響かせていた。 私たちは、既に「原発事故後の世界」を生きて4年目を迎える。小さな頃に読んだSF的な物語なんかで、「核戦争後の世界」と同様に「世界の終わり」として描かれていた世界。 そんな節目の日を前に、ふと、思った。もし、2011年3月11日が「いつもと変わらない日」だったとしたら――。そうしたら多くの命は奪われず、津波によって街や家やそこに住む人々の暮らしは破壊されず、そうしてきっと多くの人は、今に至るまで「原発」のことなど考えもせずに生きていたのかもしれないと。そして今、一基も動いていない原発は、当たり前に稼働していたに違いないと。 そんな世界で、私たちは汚染水の心配などすることなく、
東日本大震災から、もう3年が経過した。 この3年間の原稿をちらちらと読み返して、改めて、気が遠くなるような感覚に包まれた。 多くの命が失われたあの日から、なぜか生き延びた私たちはきっちり3歳、年をとった。 「被災地」には、この3年間で何度か足を運んだ。 震災1ヶ月と少しで訪れた石巻。イベントで行った福島。取材で訪ねた岩手。 津波が襲った町はひたすらにどこまでも瓦礫で埋め尽くされ、あり得ない場所にあり得ない角度で突っ込んだままの車には、「捜索済」の文字が生々しく書かれていた。たくさんの自衛隊員が長い棒を片手に遺体の捜索を続け、瓦礫撤去のボランティアたちも大勢現地に入っていた。そんな石巻では津波によって陸に打ち上げられた魚が腐り、その匂いが海辺から離れた場所にまで漂っていた。戻ってきても、しばらくはその匂いを忘れることができなかった。 翌年の1月には、取材で岩手を訪れた。 津波に襲われた町の瓦
2014年が始まった。 あと2ヶ月くらいで、私たちは「東日本大震災から3年」という月日を迎えるわけだ。 3年。それは大きな区切りである。 3・11は、まるで昨日のことのようにも思えるし、逆に「10年前だよ」と言われても納得してしまうような「時間軸の歪み」を孕んでいる。あの日のことは強烈に覚えているのに、あの日から今日までの記憶はところどころ、途切れている。しかし、その間にあったデモなどの記憶は妙に鮮明で、今になってデモの日程などを思い起こすと、短期間にどれほどたくさんのデモ会議が開催されていたのかと驚愕する。みんな、仕事とかどうやってやりくりしていたのだろう。私自身も。だけどやっぱり、その辺りの記憶はすっぽり抜け落ちている。 2011年3月11日、あの震災が起きる直前のこの国のトップニュースを覚えている人はいるだろうか? あの頃、この国のメディアを騒がせていたのは「大相撲の八百長問題」だっ
震災と原発事故からちょうど2年半が経つ。 この原稿がアップされる9月11日、「福島・区域外避難と私たち〜苦難と希望の先にあるもの〜」が18時30分から日司連ホールで開催される。 このイベント、久々に私も「主催」の一人としてかかわっているものだ。 きっかけは、今年の4月11日。四谷の教会で東日本大震災復興支援チャリティイベントが開催され、私も出演したのだ。 そこで、福島から東京に避難している女性たちが作ったDVDが上映された。震災当時の写真とともに、この2年間の様々な出来事が綴られたDVD。彼女たちを取り囲む状況に、ただただ言葉を失った。 強制的に避難させられる地域の少し外側に住んでいたこと。原発事故の直後、放射線量が高いことなど何も知らされずに子どもの手を引いて水を求める行列に何時間も並んでいたこと。政府は「安全です」と繰り返すものの、子どもが尋常ではない鼻血を出し始め、避難を決めたこと。
4月6日、宮城県に行ってきた。 訪れたのは、仙台から東北本線で30分ほどの町。そこで学校の先生たちの集まりに呼んで頂いたのだ。 福島第一原発から80キロの距離にあるその辺りは津波の被害からは逃れられたものの、県南部ということで、放射能被害に悩まされてきたという。 宮城県南部の放射能被害については、以前仙台に行った時も耳にしていた。 話を聞いたのは、「半農半X」の暮らしをしていた男性。畑と裏山がついた一軒家を借り、自給自足的な生活をしていた人だ。ストーブやお風呂を焚くのは薪。裏山ではタケノコが採れ、畑の野菜は直売所に出すという、自然から豊かな恩恵を受けるスローライフを送っていた。しかし、そんな生活を原発事故が一変させる。 薪の木を調達していた裏山にも放射能が降り注ぎ、薪の灰からは2万ベクレルが検出される。畑も田んぼも汚染されてしまい、野菜は作れない。子どもの身体が心配なので、西日本から野菜を
東日本大震災から丸2年が経った。 1万5000以上の命が奪われ、行方不明者は今も3000人近く。避難生活を余儀なくされている人は31万人にものぼり、そのうち原発事故による避難者は15万人以上。 この国が、根底から形を変えた日。多くの命が奪われ、町が流され、そして原発事故によって国土の一部が立ち入りできない場所になってしまうという最悪の事態は今も続いている。 3月10日には全国各地で脱原発を掲げたデモや集会が開かれ、東京では4万人が参加したという。私はこの日、新潟の長岡で講演し、その後参加者とともに長岡の町をデモした。長岡は、柏崎刈羽原発から30キロだ。 そんな長岡で、福島から避難しているという若いお母さん2人の話を聞く機会があった。 一人は南相馬に住んでいたA子さん。もう一人は、いわき市から避難してきたB子さん。 彼女たちの友人の多くは今もいわきなどに残り、生活を続けているという。 避難に
福島県がイノブタ態調査へ 「復興」蹴散らす恐れ 福島県富岡町内で確認されたイノブタ。体つきはブタだが毛並みと色にイノシシの特徴が表れている=2011年12月(福島県撮影) 福島第1原発の周辺市町村でイノブタの目撃情報が複数寄せられていることから、福島県が実態調査に乗り出す。原発事故の避難区域で家畜だったブタと野生イノシシが交配して生まれたとみられる。イノブタは繁殖力が極めて強く、個体数が急増すると、農地や家屋を荒廃させる恐れがあるという。 調査は1~3月、避難区域だった市町村のうち立ち入りが可能になった南相馬、田村、楢葉、広野、川内、飯舘の6市町村で実施。外観だけで判断できない場合もあるため計約120頭を捕獲し、肉の遺伝子検査で確認する。 県によると、避難区域では2011年12月に富岡町、12年11月に浪江町で生息を確認。区域に入った猟友会や獣医師から相次いで目撃情報が寄せられている。
去年3月の原発事故で放射性物質がどのように放出したかを調べるのに重要な原発周辺の放射線量について、公表されていないデータが存在することが分かりました。東京電力は未公表の理由について「調査中」としていますが、この中には、事故から5日後の去年3月16日午前に一時的に急上昇しているデータもあり、専門家は「原発で何かが起きた可能性を示しており、詳しく調べる必要がある」と指摘しています。 福島第一原発の事故で放出された放射性物質については、東京電力がことし5月に最新の解析結果を公表し、去年3月15日に2号機から翌16日には3号機から、大量に放出されたとしていますが、具体的な放出経路などは明らかになっていません。 この未解明の謎に迫ろうと、NHKが原発周辺で観測された放射線量について改めて調べたところ、第一原発から南に12キロにある第二原発の値に不自然な点があり、問い合わせた結
東京電力福島第一原発事故の収束作業で、東電と作業を請け負った関電工(東京都港区)が、高い放射線量の中で被ばくを最小限に抑えるよう必要な措置をせず、作業を続けさせたのは労働安全衛生法違反に当たるとして、福島県いわき市の元作業員男性(46)が、両社を同県富岡労働基準監督署に申し立てた。 いわき市の下請け会社に所属していた男性は、事故が発生して間もない昨年三月二十四日、3号機タービン建屋内で、電源ケーブルを敷設する作業に従事した。
先週の原稿でも触れた通り、4月13日、14日と仙台に行ったので、そこで見聞きしたことを書きたいと思う。 一面の瓦礫が一面の更地になっていたのは前回も書いた通りだが、被災者支援を続ける「東北ヘルプ」の方々の案内で奥松島、東松島など津波の被害地域を回り、その後、若林区にある仮設住宅にうかがって入居者に話を聞くことができた。 お話を聞かせてくれたのは、Hさん。津波で壊滅的な被害を受けた荒浜に住み、町内会長をしていたというHさんは、あの日・あの瞬間をショッピングセンターの駐車場で迎えたという。ラジオからは「40分後に6メートル以上の津波が来る」というアナウンス。安全な場所にいたHさんはしかし、その後津波で流されることとなる荒浜に戻る。 「まず津波は来ないもんだっていう考えが荒浜の地域の人にはあった」というのが理由のひとつ。もうひとつは、町内会長という立場の責任感だった。 「車持ってる人は遠くに逃げ
原子力安全委員会で、班目春樹氏のネームプレートをゲット! 別にいらないけど・・・。ちなみに名前の上には「茶番王」という落書きが! いろいろなことが、いろいろなドサクサに紛れるようにして進んでいる。 新しい春を迎えるという時期、そんなことを思い知っている。 今年に入ってから、餓死や孤立死が相次いで起きている中での消費税増税の論議。「登録型派遣の禁止」や「製造業派遣の禁止」が盛り込まれなかった改正労働者派遣法。そうして、原発事故がまったく収束していない中での「再稼働」を巡る動き。 このまま行けば、すべての原発は5月5日には止まると言われている。しかし、それまでになんとか再稼働を進めたいという思惑が至るところで渦巻いている。 3月23日には、そんな現場を目の当たりにした。 この日は原子力安全委員会の臨時会議の日。大飯原発の再稼働について話し合われるという臨時会議だ。 奇しくもこの日、私は衆議院第
立教大学の歴史は、米国聖公会の宣教師チャニング・ムーア・ウィリアムズが1874年に創立した「立教学校」から始まります。キリスト教が厳しく弾圧されていた時代に聖書と英学を教える私塾を開くのは、計り知れない苦闘があったことでしょう。それでもウィリアムズは教え伝えること自体が自分の使命だと確信し、需要のない中でも教育を行う道を選択しました。145年以上を経た現在においても、その姿勢は失われていません。立教大学は世間のニーズに応える形で教育を展開するのではなく、「普遍的真理を探究し、この世界や社会のために働く者を生み育てる」というミッションのもと、人類が築き上げてきた知の体系とそれらを社会に還元していく力をもつ人を育む場として存在しているのです。 本学の教育方針の基軸であるリベラルアーツは、単なる教養教育などではありません。人類が長い歴史の中で探究してきたいまだ到達し得ない理想——それを追い続ける
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