
■はじめに 私は、昨年8月まで任天堂株式会社の開発部長を務めておりましたが、8月15日付けをもって退職いたしました。そして9月11日に、企画開発を専門とする現在の「コト」という会社を京都市の真ん中に開設したところです。 まず、任天堂がどんな会社であったかを最初にお話ししておきたいと思います。 私は、昭和40年、同志社大学の工学部電気学科を優秀な成績ではないほうで卒業しました。電子工学を勉強すると、当然、半導体メーカーや電機メーカーに就職するのが常ですので、そういうところを転々と歩いて就職を希望しましたが、ことごとく落とされました。しょうがないので、京都に住んでいるから京都の企業でいいやという気持ちで、募集のきていた任天堂という会社へ就職したわけです。 けれどもその当時の任天堂というのはトランプ、花札しか作っていない会社で、最初に回された部署は、工場内の電気設備のメンテナンスを
趣味は鉄道模型で、小学3年生でOゲージを買ってもらい、中学2年生でHOゲージに転向、高校時代に完成させたレイアウト「SPライン(Sはsilk=絹、Pはparasol=傘、絹傘→きぬかさ→衣笠、当時の住所から使ったとのこと)」を専門誌『鉄道模型趣味』に投稿し、1958年1月号に掲載されている。その後進学した同志社大学でも鉄道同好会に在籍している。 1965年、同志社大学工学部電気工学科卒業後、大手家電メーカーへの就職を希望していたが、成績不良によりいずれも就職試験に落ち、近所にあってなおかつ採用してくれたという理由で任天堂に入社する。当時の任天堂は京都の花札・トランプメーカーにすぎず、横井は工学部卒の入社第一号だったと言われている。 入社当初は電気主任技術者として電気設備機器の保守点検の仕事を任されていた。その際、暇つぶしで格子状の伸び縮みするおもちゃを作り遊んでいたところを社長の山内溥に見
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