1971年(昭和46年)7月30日、千歳空港12時45分発羽田行の全日空58便[4]は、折り返し当便となる全日空57便の到着が既に45分遅れていたため13時25分に定時より45分遅れて地上滑走を開始し、13時33分に離陸した[5]。 乗客のうち122名は団体旅行客で静岡県富士市の吉原遺族会の北海道旅行団一行であった。また3人は旅行会社の添乗員であった[4]。58便は函館NDBにジェットルートJ10Lで向かい、13時46分に通過した。この時の飛行高度は22,000フィート (6,700 m)であった。ここで高度を上昇しながら松島NDBに向けて変針し、札幌航空交通管制部管制所に「松島NDB通過は14時11分の予定」と通報した。ここから巡航高度を28,000フィート (8,500 m) に上昇し自動操縦で飛行していた[5]。 一方、航空自衛隊第1航空団松島派遣隊所属のF-86F戦闘機2機(訓練機
