平安貴族の名門・藤原家との政争に敗れた菅原道真は九州・大宰府(だざいふ)に左遷されると、失意のうちに亡くなる。ここまでなら単なる悲劇だが、これから不可解な出来事が続発する。道真の左遷にかかわった人物の相次ぐ死、日照りによる作物の不作、流行病など次々と降りかかる天災に京の都は大混乱。ここに道真の祟(たた)りの仕業とする怨霊伝説へと発展していく。 相次ぐ変死事件 延喜3(903)年の道真の死後、政敵・藤原時平は妹の穏子(おんし)を醍醐(だいご)天皇の中宮とするために入内させて天皇との関係回復に努めたほか、政治への意欲をみせていた。 ところが、道真の死から3年後、「道真に不穏な動きがある」と当時、皇室の秘書室長ともいわれる蔵人頭(くろうどのとう)だった藤原菅根(すがね)とともに朝廷に報告し、道真の後任として右近衛大将に就任した藤原定国が謎の死を遂げる。 すると今度は、それから2年後の10月7日、