desean takahashi @desean97 日本思想史で修論を書いている中国人院生、出発点は「なぜ、徳川などの武士は天皇を倒して名実ともにトップに立たなかったのか」なようで。実は私もわからん。 2025-01-21 12:05:21
クンニ✋(👁👅👁)🤚せい! の始祖?を名乗る人と飯食ってきたけど悲しい過去持ちだったわ。 説明めんどいから端折るけど、あの時俺がクンニをしていれば違った未来があったかも、ってずっと後悔してるんだとさ。 自分への戒めと周りへの啓蒙のために投稿してたらなんか流行っちゃったらしい
【第一目標達成のお礼とネクストゴールへの挑戦について】※1月14日追記 この度は、ナンシー関消しゴムハンコアーカイブプロジェクトに多大なるご支援をいただき、誠にありがとうございます。1月10日から開始しました本プロジェクトですが、おかげさまで、わずか1日で第一目標の300万円(※2日目に500万円)を達成することが出来ました!これほど早い段階で目標を達成出来ましたのは、皆さまからの温かい応援とご支援のおかげです。心より感謝申し上げます。 今回の達成により、重要度の高い200点の消しゴムハンコを3Dスキャンし、デジタルアーカイブとして保存するプロジェクトを実現することが可能となりました。この一歩は、ナンシー関の文化的遺産を未来へ残す大切な基盤となります。 また、皆さまから寄せられる応援メッセージの数々に、チーム一同感激し、改めてナンシー関さんの作品とその精神が多くの方々の心に深く刻まれている
20年経った今のワイのブログへのアクセスは日/0~3PV。基本0。 このブログ自体は数年前に開設。開設後いくつか記事を書いて続かなくて放置。昨年からまた少し書き始めた。 2005年あたりから2010年くらいまで個人HPとブログをやっていた。あんまり覚えてないけど個人HPはアンケートみたいな事をして跳ねたときが最大で日1000PVくらいだった。Twitterからの流入がほとんど。 それ以外は基本20~30くらい。これも今のPVを思うと多いな。読んでたか知らんけどそんなに来てくれてたんだな。 2010年代はTwitterにかまけてブログはほとんど書かなくなってしまった。HPの更新もストップ。どちらも今は削除してしまったけど、自分の歴史としてブログくらいは残しておけばよかったと思う。 ニコニコで少し趣味の動画を作ったこともある。累計なのであれだけど一番多いので2000再生くらい。それ以外は3桁止
こんにちは、鹿野です。 「国」に対する「國」、「沢」に対する「澤」などは旧字体と呼ばれています。「旧字体」という言葉自体を知らなくても、「昔は今とは違う漢字の書き方もあった」くらいはなんとなく知っているよ、という方は多いと思います。 ▲この記事ではKが旧字体、Sが新字体であるとき「K/S」と表すものとします しかし残念なことに、漢字が好きでも「旧字体」のことを雰囲気でしか理解しておらず、「古い漢字」程度にしか捉えていない人がほとんどです。そのため、以下のような勘違いをする人が非常に多くいます。 ▲よく見かけるが実は全部間違い これらの発言はなぜ間違いなのでしょうか? 目次 ◎意外と知らない「旧字体」の定義 ◎「旧字体」の定義における注意点 ◎誤解①:新字体は戦後日本でまとめて作られた ◎誤解②:戦前日本では専ら旧字体が使われていた ◎誤解③:新字体は旧字体を変化させてできた ◎旧字体と誤解
1. 吉備真備(日本囲碁の始祖)中国で囲碁を学び、日本に伝えたとされる。 大宝律令の中に碁に関する項目があること、隋書倭国伝に「好棋博、握槊、樗蒲之戯(囲碁、握槊、樗蒲(さいころ)の競技を好む)」との記載があることから、実際にはさらに以前から伝わっていた説もある。 2. 本因坊算砂(初代本因坊)囲碁四家の筆頭・本因坊家の始祖。 信長・秀吉・家康等に仕え囲碁を指南する。 後の幕府の保護に繋がる礎を築いた。 初代碁所であると同時に初代将棋所でもあった。 3. 徳川家康(囲碁の保護)本因坊・安井・井上・林の四家を召し抱え囲碁を庇護した。 幕府の庇護のもと囲碁に専念する職業棋士が誕生し四家の互いの切磋琢磨により日本での囲碁の技術が飛躍的に向上、多くの名手が生まれる土壌が整えられた。 朝鮮通信使で来た囲碁の名手と日本の棋士との差は3子であったという。 近世囲碁の発展、振興に絶大な貢献。囲碁殿堂表彰に
偏見で語る兵器bot @heikihenken 1705年にピョートル大帝がロシアで初めて近代的な形での兵役制度を敷いたとき、なんと兵役期間は無期限だった。 なので村から兵役に送られる男は「コイツならいなくなってもいいや」という場合がほとんどだったという 流石にひどすぎたので1793年になって兵役期間25年に短縮された… そっちのほうがひどくないか?20歳で軍隊に連れていから45歳で放り出されても生活能力ゼロだろ?! 2024-09-25 19:39:21
おれはコンスタンティノス7世。 なんか苦労人のような感じもするし、 スーパーラッキーなやつのような感じもする。 すごい文人皇帝で東ローマで文化を興隆させた人なんだけどね。 その一生がなんといえばいいんだろう? ものすごく、わかりやすくいうと、 徳川家康に一回天下を取られたんだけど、あとから返してもらった豊臣秀頼。 みたいな感じかな。 それも色々と面倒事、というかかなり深刻な外交や内政の問題を家康が色々と解決した結果として、 すごく国力が充実した状態で天下人になれたラッキーマン。 その徳川家康の役割をしたやつが、 ロマノス1世レカペノスというやつなんだけど、 そいつはせっかくクーデター起こして皇帝になったのに 期待していた跡継ぎの長男が死んじゃったら なんか、ああ駄目だ 他の俺の息子共はボンクラばかりで誰もまともに皇帝になんてなれやしねえ、 って諦めて 後継者をコンスタンティノス7世にしちゃ
幡大介 @uhqEW5dT0RFiiyn 主に宣伝をするためのアカウントです。無言フォロー失礼致します。 小説家その他いろいろやっております。 NHK 時代ドラマ「大富豪同心」「大富豪同心 弐」「大富豪同心 参」の原作者です。 ドラマは、NHKオンデマンドで視聴ができます。 Followreの数が増えると喜びます。 リンク Wikipedia 竹簡 竹簡(ちくかん)は、おもに東洋において紙の発明、普及以前に書写の材料として使われたもので、竹で出来た札(簡)を竹簡(ちくかん)と呼び、木で作られたものは木簡(もっかん)といい。両者を合わせて簡牘 (かんどく)とした。ただし、中国で用いられたのは竹簡が多いので、竹簡を竹簡と木簡の総称の簡牘の意味で用いる場合も多い。 木簡は中国以外でも多く使われたが、竹簡の中国以外出土はごく少ないか、皆無である。ごく特殊な例として、封禅のために玉で作成した「玉簡」
とてつもない失敗をやらかした時には、迷うことなく本書をお読みください。人類がどれほどヘマを繰り返し、救いようのない災いをまき散らしてきたか。 こんな宣伝文句を見て、おれは『メガトン級「大失敗」の世界史』という本を手に取った。 原題は「HUMANS:A Brief History of How We F*cked It All Up」というらしい。 おれは英語圏の四文字言葉の感覚はわからない。いずれにせよ、ヒューマンズの話である。われわれ人類はどれだけ大きな失敗をやらかしてきたのか。 失敗は大きく二つにわかれる。人類の人類に対する失敗、人類の自然環境に対する失敗。 前者については専制君主の失敗、民主主義の失敗、戦争の失敗、植民地の失敗、外交の失敗、テクノロジーの失敗……とある。 人類の人類に対する、あるいは国家に対する失敗。知らないことがらが多かった。 バイエルンのルートヴィヒ二世や、もちろ
ある日おれは、図書館でキェルケゴールとキケロの本を借りた。なんの意図もない。なんとなく「き」が気になったからだ。そういう日もある。 キケロの名前は聞いたことがあるだけで、何時代の何人かも知らなかった。 マルクス・トゥッリウス・キケロ – Wikipedia マルクス・トゥッリウス・キケロ(ラテン語: Marcus Tullius Cicero, 紀元前106年1月3日- 紀元前43年12月7日)は、共和政ローマ末期の政治家、弁護士、文筆家、哲学者である。 そうか、そんな時代の人だったか。おれは大学受験のために中学から世界史を優先して学ばされていたが(公立校の人は日本史に時間をとっているため、受験のときにライバルが少ないはず、という学校の方針)、なるほど三十年も経つとなにも覚えていない。 いずれにせよ、紀元前の人物だ。そのころ、日本人はなにをしていたのだろうか。こういう疑問をいだいたとき、お
1172年よりホラズム・シャーのスルターン・シャーと、その異母兄アラーウッディーン・テキシュの間で王位争いが起こり、弟に対抗して西部に自立したテキシュは初めてスルターンを称した。争いは長期化するが、1189年にテキシュがスルターン・シャーと講和して王位を認められ、1193年のスルターン・シャーの死によってホラズム・シャー朝の最終的な再統合を果たす。 テキシュの治世にホラズム・シャー朝は、イランへの拡大を開始する。1194年にはアゼルバイジャンのアタベク政権イルデニズ朝の要請に応じて[6]、中央イランのレイでイラク・セルジューク朝のトゥグリル2世を破ってセルジューク朝を滅ぼし、西イランまでその版図に収めた[7]。1197年、テキシュはアッバース朝のカリフから正式にイラクとホラーサーンを支配するスルターンとして承認され、大セルジューク朝の後継者として自他ともに認められることとなった。 もともと
ダリエン計画(英: Darien scheme、ダリエン・スキーム)は、1690年代末に行われた、スコットランド王国の投資家による失敗に終わった植民計画である。現パナマ共和国グナ・ヤラ(英語版)(グナ族自治区)にニューカレドニア(New Caledonia、「新スコットランド」の意)植民地を建設し、バルボアと同様にパナマ地峡を陸路で横断して大西洋のダリエン湾(英語版)から太平洋へと通じる交易路の開拓を目論んだ。 二度にわたって定住が試みられたものの、80%を超える移住者が1年以内に死亡、植民地は放棄された[1] [2]。このような悲惨な結果となったのには様々な原因があった。計画と準備の不十分さ、リーダーシップの分裂、貿易品の需要の欠如、イングランドによる貿易封鎖[3]、熱帯病の壊滅的な流行、スコットランドによる植民を快く思わないイングランド東インド会社とイングランド政府との連携、スペイン帝
2024/1/31(水) 20:10頃 TBSラジオ「荻上チキ・ Session」#ss954 メインセッション 「東アジア反日武装戦線」とその時代を振り返り、見えてくるもの https://www.youtube.com/live/ouGKVPIWh9s?si=1pm7-RACXU1kcPQl&t=7782 初見(初聴)の固有名詞や略語も多かったので振り返ってみる。 (約3600文字) 青木理氏: 最近判決が出た大坂正明被告(渋谷暴動事件)は中核派だった。 中核派はまだ組織があるが、東アジア反日武装戦線はもう組織がない。 桐島聡「さん」 田原牧氏: (「戦線」ではないが過激派の?)裁判支援をしている友人がいた。 私は急に森田童子を思い出した。 荻上チキ氏: 「ぼくたちの失敗」('76リリース、'93「高校教師」主題歌)の。 田: もっと物議を醸しそうな曲もあったが、そういう時代を思い出し
『隠された聖徳太子――近現代日本の偽史とオカルト文化』(ちくま新書) 『隠された聖徳太子――近現代日本の偽史とオカルト文化』(ちくま新書)は、日本史上もっとも神秘的な「聖人」である聖徳太子が、1000年以上ものあいだどのように語り継がれてきたのかを辿ることで、その時代ごとに人々がなにを求めていたのかを探った一冊だ。戦前/戦後の聖徳太子像の変化や、1970年代のオカルトブームにおける聖徳太子像などを捉え直し、「歴史」と「偽史」の曖昧な境界を歩む本書は、昨今流布する陰謀論などについて改めて考える上でも有益な読み物と言えるだろう。著者のオリオン・クラウタウ氏に、オカルトや偽史も含めて聖徳太子を研究する意義を聞いた。(編集部) オリオン・クラウタウ氏。東北大学大学院国際文化研究科准教授。 専門は宗教史学(近代日本仏教)。 ――そもそもクラウタウさんは、聖徳太子の存在をどのような文脈のもとに知ったの
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