篠田 桃紅(しのだ とうこう、本名:篠田 満洲子[1]、1913年3月28日[2] - 2021年3月1日[2])は、日本の美術家、版画家、エッセイスト。 映画監督の篠田正浩は従弟[1]、建築家の若山滋は甥にあたる[3]。 日本の租借地だった関東州大連に生まれる[2][4]。父の篠田頼治郎は東亜煙草の大連支社長で、職場と自宅があったジョサイヤ・コンドル設計の元ロシア帝国の3階建洋館で三男四女の第五子として生まれ、満洲子と命名された[5]。 2歳で東京に戻り、5歳頃から父に書の手ほどきを受ける[2]。その後、女学校時代以外はほとんど独学で書を学ぶ。 1950年から数年、書道芸術院に所属して前衛書の作家たちと交流を持つが、1956年に渡米[2]。抽象表現主義絵画が全盛期のニューヨークで、作品を制作する。文字の決まり事を離れた新しい墨の造形を試み、その作品は水墨の抽象画=墨象と呼ばれる。アメリカ
”トーハク”の愛称で親しまれている東京国立博物館が令和4年(2022)で創立150年を迎えたことを記念して、とんでもない特別展を開催します。 なんと東京国立博物館が所蔵する国宝89件をすべて公開するという、その名も特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」。 同館は明治5年(1872)の発足以来、日本でもっとも長い歴史をもつ博物館として、日本の文化を未来へ、そして世界へ伝えていく役割を果たしてきました。 本展では、150年の間に積み重ねられた約12万件という膨大な所蔵品の中から、国宝89件すべてを含む名品と、明治から令和にいたる150年の歩みを物語る関連資料を通して、東京国立博物館の全貌を紹介。 東京国立博物館が所蔵する国宝89件すべてを展示(会期中展示替えあり)するのは150年の歴史上はじめての奇跡的なことで、メモリアルイヤーにふさわしい展示となることでしょう。 なお、国宝となっている刀剣全
作者一覧 14-16世紀 (66) ルネサンス美術 (15) アルブレヒト・デューラー (10) ボッティチェリ (2) レオナルド・ダ・ヴィンチ (3) マニエリスム (1) ジョゼッペ・アルチンボルト (1) ヴェネツィア派 (32) ティツィアーノ・ヴェチェッリオ (32) ピーテル・ブリューゲル(父) (18) 17世紀 (37) バロック絵画 (31) フェルメール (25) ベラスケス (2) ルーベンス (1) レンブラント (3) オランダ絵画 (5) エサイアス・フェルデ (1) ヘルクレス・セーヘルス (1) ヤコブ・ファン・ライスダール (1) ヤン・ステーン (1) ヤン・ファン・デル・ヘイデン (1) ラ・トゥール (1) 18世紀後半-19世紀 (57) ロマン主義 (41) ウィリアム・ターナー (34) ゴヤ (5) ドラクロワ (2) 新古典主義 (16)
寛延3年(1750年)農民井藤甚八の子として美濃国武儀郡で生まれた[1]。11歳の頃清泰寺において臨済宗古月派の法を嗣ぐ空印円虚(1704-1784)について得度し、臨済宗の僧となった[3]。19歳の時、武蔵国久良岐郡永田(神奈川)の東輝庵に住する月船禅彗(1702-1781)のもとで修行をはじめ、その後印可を受け、月船が示寂した天明1年(1781年)32歳のとき同寺を出て行脚の旅に出る[4]。39歳より博多の聖福寺の盤谷紹適の法嗣となる[1]。住持を23年務め、一応の引退となる。88歳で遷化するまでに、多くの洒脱・飄逸な絵画(禅画)を残す[5]。天保8年(1837年)10月7日遷化、のち天保12年(1841年)仁孝天皇より「普門円通禅師」の諡号を賜る[1][2]。 本格的に絵を描き始めたのは40代後半になってからと見られている[6]。仙厓の絵は生前から人気があり、一筆をねだる客が絶えなか
マルセル・マルソー(Marcel Marceau、出生名 - Marcel Mangel、1923年3月22日 - 2007年9月22日)は、フランスのパントマイム・アーティストである。この芸術形式における第一人者で、近代パントマイムでもっとも有名な人物のひとりである。「パントマイムの神様」「沈黙の詩人」と呼ばれた。 1923年、フランスのストラスブールでユダヤ人の父・シャルルと母アンヌの間にMarcel Mangel(マルセル・マンジェル)として生まれる[1]。16歳のときフランスが第二次世界大戦に突入、その影響により家族でリモージュに移住を強いられる。その後兄弟のアランとともにマルセルはシャルル・ド・ゴールの自由フランスに参加、堪能な英語力でジョージ・パットンの軍隊の渉外係として働く[2]。戦況が悪化する中、ドイツ軍のフランス侵攻に伴い、ユダヤ人であることを隠すために姓をMangelか
この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。 問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2011年12月) 未来派のメンバー、左からルイジ・ルッソロ、カルロ・カッラ、フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ、ウンベルト・ボッチョーニ 、ジーノ・セヴェリーニ 未来派(みらいは)とは、フトゥリズモ(伊: Futurismo、フューチャリズム、英: Futurism)とも呼ばれ、過去の芸術の徹底破壊と、機械化によって実現された近代社会の速さを称えるもので、20世紀初頭にイタリアを中心として起こった前衛芸術運動。この運動は文学、美術、建築、音楽と広範な分野で展開された。1920年代からは、イタリア・ファシズムに受け入れられ[1]、戦争を「世の中を衛生的にする唯一の方法」として賛美した。 ウンベルト・ボッチョーニ『都市の成長』 アントニオ・サン
この項目では、キリスト教における敬拝の対象としての聖像について説明しています。英語からの片仮名で転写された語彙の概念・語義については「アイコン」を、その他の用法については「イコン (曖昧さ回避)」をご覧ください。 イコン(ギリシア語: εικών, ロシア語: Икона, 英語: Icon, ドイツ語: Ikon)とは、イエス・キリスト(イイスス・ハリストス)、聖人、天使、聖書における重要出来事やたとえ話、教会史上の出来事を画いた画像(多くは平面)である[1]。"εικών"をイコンと読むのは中世から現代までのギリシャ語による(ειは中世・現代ギリシャ語では「イ」と読む)。古典ギリシャ語再建音ではエイコーン。正教会では聖像とも呼ぶ[2]。
長谷寺(はせでら)は、神奈川県鎌倉市長谷にある浄土宗系統の単立寺院。正式には海光山慈照院長谷寺(かいこうざん じしょういん はせでら 山号: 海光山、院号: 慈照院)と号し、長谷観音(はせかんのん)の名でも知られている[3]。本尊は日本最大級の木造仏像である十一面観世音菩薩像。開山は徳道上人。坂東三十三観音霊場の第四番札所である。 本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか ご詠歌:長谷寺へまいりて沖をながむれば 由比のみぎはに立つは白波 伝承では長谷寺の創建は奈良時代とされているが、中世以前の沿革は明確でなく、創建の正確な時期や経緯についても解明されていない。 寺伝によれば、天平8年(736年)、大和の長谷寺(奈良県桜井市)の開基である徳道を藤原房前が招請し、十一面観音像を本尊として開山した。養老5年(721年)に徳道は大和国の山中で見つけた楠の大木から二体の十一面観音を造り、その一体(
『近江伊香郡志』所収の寺伝によれば、天平8年(736年)、当時、都に疱瘡が流行したので、聖武天皇は泰澄に除災祈祷を命じたという。泰澄は十一面観世音を彫り、光眼寺を建立し息災延命、万民豊楽の祈祷を行い、その後憂いは絶たれたという。その後病除けの霊験あらたかな観音像として、信仰されるようになった。延暦9年(790年)、比叡山延暦寺の開祖である最澄が、勅を奉じて七堂伽藍を建立したという。 元亀元年(1570年)、浅井・織田の戦火のために堂宇は焼失した。しかし観音を篤く信仰する住職巧円や近隣の住民は、観世音を土中に埋蔵して難を逃れたという。この後巧円は浄土真宗に改宗し、光眼寺を廃寺とし、向源寺を建立した。 明治21年(1888年)、宮内省全国宝物取調局の九鬼隆一らが当寺の十一面観音像を調査し、日本屈指の霊像と賞賛した[2]。古社寺保存法に基づく日本で最初の国宝指定は明治30年(1897年)12月2
明治から昭和にかけて人気を博した日本画家・伊藤晴雨(1882~1961年)の肉筆画10点が、東京都文京区立根津小学校(四家(しけ)薫校長)に保管されていることが分かった。地域史を研究する早川義郎さん(86)、由紀子さん(79)夫妻が存在を指摘し、学校側が倉庫を調べて見つけた。多くは区にゆかりのある祭りや名所、物語の場面などが描かれている。実物を確認した文京ふるさと歴史館専門員の加藤芳典さん(44)は「保存状態がよく、今はなくなった昔の文京を知る貴重な資料」と評価している。(加古陽治、写真も) いとう・せいう 東京・下町の彫金師の家に生まれる。12歳で象牙彫刻師のもとに奉公に出されたが、年季が明けると絵で身を立てることを決意。芝居小屋の看板描きから始め、新聞の挿絵画家となった。劇評や時代考証の分野でも活躍し、歌舞伎役者や落語家と交流。縛られた女性を描く「責め絵」や幽霊画を得意とし、「キャバレ
北斎が75歳の時に執筆した『富嶽百景』初編の跋文には、「己六才より物の形状を写の癖ありて」とあります。北斎自身が、6歳の頃から物の形を写生する癖があったと語っているのです。物心がついた頃から、絵を描くことが大好きだったのでしょう。 しかしながら、北斎ははじめから浮世絵師を目指していたかというと、そうではありません。実は、浮世絵師を志す前、版木に文字や絵を彫る「彫師」の仕事をしていたのです。 このことは、北斎とタッグを組んで読本を制作していた曲亭馬琴も記しています。こちらは北斎からもらった手紙に、馬琴が朱書きの覚書を貼り付けたもの。(画像は『曲亭来簡集』月之巻、国立国会図書館蔵) 冒頭に「北斎はじめは剞劂をまなびしが捨て」とあるように、北斎ははじめは剞劂(きけつ)、すなわち版木を彫ることを学んでいたのです。 また、飯島虚心の『葛飾北斎伝』(蓬枢閣、1893年)には「鉄蔵十四五歳の時、彫刻家某
東京国立博物館 本館特別5室で5月8日(日)まで開催中の特別展「空也上人と六波羅蜜寺」。今回の「展覧会の裏側」では、実際に輸送を担当した日本通運・関西美術品支店の村井鹿重さんと徳山宣和さんに話を聞きました。本展での輸送を例に美術品輸送の実態に迫ります。(ライター・鈴木翔) 梱包前の点検(朝日新聞社提供) 運ぶだけでない 展示作業 まで立ち合う ――空也上人展の輸送はどのようなスケジュールで行われたのでしょうか? 村井 「開幕半年くらい前に展覧会場となる東京国立博物館の研究員さん、朝日新聞社、展示品を貸し出すお寺の方々、そして私たち作業チームが集まって、全体のスケジュールを作りました。 今回は開幕の2週間前頃、京都の六波羅蜜寺に伺い、梱包こんぽう作業を行いました。梱包の済んだものは順に別の保管場所に一旦移動してから何便かに分けて東京国立博物館まで運んでいます。会場の清掃作業や報道・関係者向け
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