慶応4年(1868年)、薩摩藩・長州藩を中核とする明治新政府軍は京都近郊での鳥羽・伏見の戦いに勝利し、東征軍を組織して東海道・東山道・北陸道に分かれ進軍した。北陸道の新政府軍は北陸道鎮撫総督府の山縣有朋と黒田清隆を指揮官としていた。新政府軍は越後における旧幕府軍の平定と会津藩征討のため、長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)へ進駐した。 長岡藩は、大政奉還以後も徳川家を支持し、長岡藩主・牧野忠訓と家老上席、軍事総督・河井継之助のもと、ファブルブラント商会(C.&J.FAVRE BRANDT)、スネル兄弟などからアームストロング砲、ガトリング砲、エンフィールド銃、スナイドル銃、シャープス銃(軍用カービン)などの最新兵器を購入し、海路長岡へ帰還した。[3] 新政府軍が会津藩征討のため長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)に迫ると、門閥家老・稲垣茂光(平助)、先法家・槙(真木)内蔵介以下