太平洋戦争の終戦直後、日本軍がマレーシアで行った虐殺について被害者遺族が証言する催しが、横浜市内で7日に開かれる。教員らでつくる「アジア・フォーラム横浜」(吉池俊子代表)が主催。父を殺害されたシンガ…

Published 2023/07/17 21:07 (JST) Updated 2023/07/17 21:17 (JST) 旧日本軍で細菌兵器開発や捕虜への人体実験などを極秘裏に実行した731部隊(関東軍防疫給水部)の「職員表」を含む公式文書が残されていることが17日、分かった。1940年に組織改正して防疫給水部となった際に関東軍が作成し、部隊の構成や隊員の氏名、階級などを記している。厚生労働省から移管され国立公文書館が保管する文書を、明治学院大国際平和研究所の松野誠也研究員(日本近現代史)が発見した。 731部隊の関連文書は敗戦時に焼却が命じられており、新文書は細菌戦組織の実態解明につながると期待される。松野さんは「部隊の各部の構成とともに隊員の氏名と階級などが明示された旧日本軍作成の資料が見つかったのは、初めてではないか。誰がどのように部隊に関与し、戦後どう生きたかを明らかにする材
武田騎馬隊の「旧戦法」対「新戦法」の信長という通説 長篠合戦とは、いったいどのような意義がある戦いだったのだろうか。このような問いをわざわざ立てたのは、今も、歴史教育の分野で、長篠合戦は教科書において「(信長は)三河の長篠合戦で多くの鉄砲隊を使って武田氏の騎馬軍団を破った」(『改訂版高校日本史・日本史Β』山川出版社)と記され、それは、鉄砲3000挺を揃え、その連射(いわゆる「三段撃ち」)により、騎馬攻撃という旧来の戦法を撃破したという構図で語られているからである。 そこには、先見性に富む軍事的天才織田信長が、保守的な武田勝頼の軍勢(兵農未分離で後進的な武田軍)に対し勝利した、という暗黙の理解が横たわっているといえるだろう。 だが、この10年ほどで、織田権力や戦国大名の軍隊編成に関する研究は飛躍的に進んだ。その結果、兵農分離という概念そのものが再検討を余儀なくされ始めている。織田も、武田も、
このテキストは岩崎夏海・稲田豊史両氏による『ゲームの歴史』の1、2、3の中で、ゲームの歴史的に見て問題があり、かつ僕が指摘できるところについて記述していくテキストだ。 (7)は2巻の第10章を扱ったものになる。 該当の本は、ハッキング・箱庭・オープンワールド・疑似3D・2Dなどの通常のゲーム&コンピュータ用語に筆者の独自解釈が含まれていて、それを筆者の都合に応じて定義をいじりながら論を展開するために、極めて独特の内容になっている。 例えば3D描画で背景をテクスチャで埋めると3D+2Dの疑似3Dになると言われたら、普通のゲーム屋なら目を白黒させるだろう。ただ、それは筆者の主張なので「自分はそこは批判はしないが、筆者の見方には全く同意できない」とだけ書いておく。 該当の本の引用部は読みやすさを考慮してスクリーンショットからonenoteのOCRで文字の書きだしをしたものを僕が修正したものになっ
先日お邪魔したご高齢のお客さん宅。色々な作業が終わって、お茶を頂いた時に、自分の出身を聞かれて、お客さんの出身も聞き返したら、ちょっと難しそうな顔になって、 「北海道だけど、今は無い。」 と。なので千島か樺太かと思い、 「樺太ですか?」 と答えると、少し嬉しそうな顔に。
【長文です】 1995年3月20日に起こった地下鉄サリン事件…オウム真理教が起こした未曾有のテロでした。お亡くなりになった方々のご冥福をお祈りすると共に、今もなお、PTSDなどの後遺症で苦しむ方々の症状が少しでも改善しますようお祈り申し上げます。...
77年前の7月初旬、第2次大戦で日本軍はインド北東部を攻略する「インパール作戦」を中止した。物資が不足した日本兵の撤退路は餓死や病死が続出。道端に放置された遺体は高温多湿な環境で腐敗が早く、やがて白骨化した。「白骨街道」と呼ばれた死と隣り合わせの道を踏破した元陸軍伍長の松田善兵衞さん(100)=福井県敦賀市=は「わしもこんなんなるのかなと思った。でも、もう一度(敦賀市の)杉箸の地を踏まないと、と歩いた」と当時を振り返った。 ⇒【写真】インパール作戦を紹介する雑誌に掲載されている行軍する日本兵 1942年に敦賀連隊に入営し、中国に駐留した。その後、補充兵としてインパール作戦の主力を担った3師団のうちの一つ、通称「祭兵団(まつりへいだん)」(第15師団)の67連隊に転属。東南アジアに向かった。 同兵団は2千メートル級の山が連なるビルマ(現ミャンマー)のアラカン山脈を越えて、直接インパールを攻略
門賀美央子 @mongamioko 70年代半ばにもまだ街場に傷痍軍人がいたのを記憶している。 天王寺の大きな歩道橋の上でずっと平伏して物乞いをしていた。 「あの人、何してるん?」と尋ねた時の、祖母の複雑な表情は今も忘れられない。 <RT 2021-04-07 09:01:52 竹熊健太郎《Aタイプ》 @kentaro666 いろいろな人から「70年代末まで普通に見かけた」というご意見をいただきました。私、70年代は神奈川県と千葉県に住んでいましたので、さすがに見かける機会がありませんでした。80年代から東京にいましたが、ホームレスは見ましたが、傷痍軍人は見た記憶がありません。 2021-04-06 23:24:21
遊牧民@候選 @Historian_nomad 中学生がなけなしの2000~3000円だして手に取る本、それも大型書店などではなく町中のショッピングモールなどに入ってる小型の「本屋」で手に入るレベルの本がゴミカスみたいなのばっかだからよくないのではないか。名指しするとあれだから言わないけど猛省しろ(何 2021-02-08 19:07:32 遊牧民@候選 @Historian_nomad 歴史に関する本を買いたい中学生・高校生のみんな!悪いこと言わないから岩波・中公・ちくま・講談社現代・平凡社の文庫か新書か選書にしておけ!あとあれば河出かNHKブックス!ほかはちょっと著者を見分けるセンスがないと厳しいから!(何 あと塾講師が書いてるやつはやめろ!いいな!(あっ 2021-02-08 19:18:41 遊牧民@候選 @Historian_nomad 高校生ならたぶん結構な確率で教科書持ってる
はんどう・かずとし/昭和5(1930)年生まれ。東大文学部を卒業後、文藝春秋入社。専務取締役を経て文筆業に。『日本のいちばん長い日』は終戦の日を描いたベストセラーとなり、映画化もされている。『ノモンハンの夏』『昭和史』『文士の遺言』など著書多数 作家で歴史研究家の半藤一利さんが1月12日に亡くなった。享年90。東大文学部を卒業後、文藝春秋入社した半藤さんは、専務取締役を経て文筆家に。終戦の日を描いたベストセラー『日本のいちばん長い日』をはじめ、『ノモンハンの夏』『昭和史』『文士の遺言』など数々の作品を書き残した。 歴史とは何か、戦争とはなにかという問いに徹底的に向き合った半藤さん。その根底にはどんな思いがあったのか。フライデーが2019年6月、ご本人にその壮絶な半生を聞いてまとめたインタビューをここに再掲する。 「オマエは非国民だ」 半藤氏は昭和5年、東京の下町、向島(現・墨田区)に生まれ
明治30年に建造され、日本の近代造船の先駆けとなった神奈川県横須賀市の造船所、「浦賀ドック」を所有する機械メーカーが、歴史的な資源として活用してもらおうと、日本最古のレンガ積みのドックなど施設の一部を市に寄付することになりました。 「浦賀ドック」は、明治30年(1897年)に建造された造船所で、平成15年に閉鎖されるまで1世紀にわたり、およそ1000隻の軍艦や大型タンカーを製造し、国の「近代化産業遺産」にも認定されています。 施設を所有する住友重機械工業は、歴史的な資源として活用してもらおうと、一般に公開されていなかった浦賀ドックの4分の1にあたる敷地と施設を横須賀市に寄付することになりました。 船体の建造や修理に使われる「ドライドック」は、レンガ積みで作られた日本最古のドックで、船を載せる部分には切り出した50ほどの石が1列に並び、遺跡のような雰囲気を漂わせています。 横須賀市は、今後、
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