*『理由と人格』デレク・パーフィット著、森村進訳、勁草書房、1998 私、そして私とともに現在生きている人々がこうして存在するのは、過去の世代の人々が選択し、行なってきたことの結果である。そうした選択や行為の中には、称賛に値するものもあれば、非難に値するものもある。しかし、これらの非難に値する選択や行為をも、過去の世代の人々がなさなかったとしたなら、私も、現在生きている他の人々も存在しなかっただろう。たとえば、現在〇歳のある子供の父母が出会うことは、民主化と経済成長がもたらした教育の大衆化、とくに女性の大学進学率の向上なしには、あり得なかったことかもしれない。ところが、その子供の祖父母は、戦争の結果である彼らの世代の男性の人口の減少がなければ、出会うことがなかったかもしれない。このようにして、過去の世代の人々の行為がなければ、その人は存在していないだろうというストーリーを、各人について語る
序: 「文明の終焉」 の相互関係 「文明の終焉」 という場合、 少なくとも五つの異なる意味がある。 これまでに文明という呼称のもとに続いてきたものが、 (1)物理的にも現象的にも消滅もしくは衰微する (核戦争、 環境汚染、 資源枯渇など)。 (2)物理的に継続し、 現象的に転換する (価値観のパラダイム変換、 画期的技術革新など)。 (3)現象的に継続し、 物理的担い手が変わる (他種族、 コンピューターなどによる代行的継承)。 (4)物理的または現象的に継続しながらも、 文明と認知されなくなる (遙かに高度な異文明との邂逅など)。 (5)物理的または現象的に継続しながらも、 文明という概念が変質もしくは無効化する (哲学的なパラダイム変換)。 (1)~(3)は実質的終焉、 (4)(5)は名目的終焉と呼ぶことができよう。 本稿では、 比較的現実性のある(1)と(2)の論理関係を考察する。
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