山口 第18章、第19章はポーランド問題を軸に追跡しています。独ソ戦を戦いながらスターリンがポーランド問題で三つの目標を持ち、それを達成した経過を明らかにしています。こういう研究はこれまでなかったものですね。 ポーランド制覇の三つの目標 不破 「三つの目標」というのは、スターリンがまとめて提起したものではなく、彼の行動から客観的に浮かび上がってくるものです。 第一は、ドイツとの秘密協定(1939年)でソ連が併合した東部ポーランドをソ連領として認めさせること。第二は、その代償として、ドイツの一部をポーランドに割譲して、ポーランド領を西方に拡大すること。第三は、復活した新ポーランドをソ連の支配下におくこと。ドイツとの秘密協定で得たものより、はるかに大きいソ連勢力圏の大拡張でした。 スターリンは、大戦の終結前に、この三つの目標を全部達成するのです。最大の難関は、当時ロンドンにいたポーランド亡命政
様々な理由が考えられるだろうが、最初に思いつくのは、要となるローマ帝国が衰退するとともに、その先には海しかないユーラシアの半島のような狭い地域に、人種や言語の異なる多民族が東から順に押し込まれてしまったという結果である。 生産性の低い麦がもたらした紛争 意思疎通がうまくいかない雑居集団の相隣関係では、争いの種は尽きまい。その中でも、人間生活で最も切実な食物に問題が関われば、争奪戦も深刻なものになっただろう。 食えるか食えないかの問題(貧困の問題と置き換えてもよい)は、少なくとも1500~1600年代頃までは、生産性の低い作物と土地とに向かい合わねばならなかったヨーロッパの宿命だった。南欧を除けば、カロリー源のオリーブの恩恵にも与(あずか)れない。 温暖だった中世前期が終わると、地球規模の寒冷期が到来した。1300年代から1700年代にかけて、ヨーロッパでは、それでなくともアジアのコメに比べ
伝統芸能レベルの左翼クリシェを書き散らす沖縄新報が、中国脅威論を批判していました。 自衛隊も持ち出して緊張状態が続く尖閣問題を意識させれば、日米同盟強化もオスプレイ配備も納得してもらえるという算段だろうが、あまりにも作戦の想定が安直で非現実的ではないか。 国際社会への影響の大きさやその後の維持管理コストなどを考えると、中国が尖閣諸島を「奪う」メリットがあるとは思えない。従って「奪還」のためのオスプレイが役立つこともないだろう。 オスプレイ宣撫 離島防衛に絡める安直さ 沖縄新報の主張を真面目に受け止める人は今や少数だと思いますが、中国が武力行使するメリットはないとする論理には説得力があるように思えます。中共嫌いの人も、尖閣防衛の強化を訴える人も、心の底では中国が開戦に踏み切るはずはないと感じており、対中警戒はあくまで中国の横暴を牽制するためのポーズ程度に考えている人は多いはずです。 中国のメ
インド・ヨーロッパ語の源流 山條レポート161023 印欧祖語 今回はインド・ヨーロッパ語(印欧語)の系統について、最近思いがけないことが明らかになってきたのでそれに関連する話を取り上げてみよう。 昔、学校で英語を習ったときは難しかった。今でもややこしい文章になると何がどうしたのかつかみきれず難渋する。これは英語と日本語の系統が違うことが大きい。 生物に系統があるように言語にも系統がある。これはひとつの先祖の言葉、祖語から分かれたものと考えられている。英語、ドイツ語、イランのペルシャ語、インドで多く話されているヒンズー語などを含む言語は太古の印欧祖語の子孫で、世界的には最も多く話されている言語である。1975年の統計では当時の世界の人口のうち6億人がインドアーリア語、5億人が英独などのゲルマン系、ほぼ同数がローマ帝国のラテン語の子孫であるイタリア、フランス、スペイン語など、3億人がロシア語
それは糞ゲーだった。 目も当てられないクオリティの、酷い馬鹿ゲーだった。 dota allstars。 それは、WarCraft3というゲームのMODであり、糞ゲーだった。 ビデオゲームの歴史上、最も偉大なリアルタイムストラテジーゲームの1つである、WarCraft3。そのWarCraft3に付属していた、カスタムエディタというツールを用いて、一介のユーザーが作り上げた、5対5の対戦ゲーム。それが、Defense of the Ancientsだった。そう、dotaだった。 dotaは、WarCraft3というゲームを購入していないと遊べない。極めて一部の人達の為の「フリーゲーム」だった。けれども幸いな事に、WarCraft3は500万本ものセールスを記録していた。極めて一部と呼ぶには、十分すぎるだけの母数だった。 WarCraft3は、確かに優れたビデオゲームだった。 StarCraft
この説に対しては以下の三点が反論となります。 サッカーが正式に成立したのは1863年です。対して、エリスがラグビー校に在籍していたのは1816年〜1825年であり、 当時はまだサッカーという競技は存在していませんでした。 エリスがプレーしていたのはラグビー校が独自にルールを定めた「フットボール(サッカーとは別物です)」という競技であり、この当時のルールではボールを手で扱うことが認められていました。よって、エリスがハンドの反則をとられることはあり得ません。 (詳しくは後述しますが、エリスが犯した反則はハンドではなく、ボールを持って前に進む「ランニングイン」でした。) ラグビー・フットボールはルールが何度も変わっており、競技として成立した時期を断定するのは困難ですが、ラグビー校がランニングイン容認を明文化したのは1845年のことでした。エリスは20年前に卒業している計算になります。 1
スウェーデン近世史:記事批評 | Organization, Legitimation, Participation Mats Hallenberg, Johan Holm, Dan Johansson ‘Organization, Legitimation, Participation: State Formation as a Dynamic Process | the Swedish Example, ca. 1523-1680’ Scandinavian Journal of History 33/3 (2008), 247-68 ISSN: 0346-8755 (print); 1502-7716 (online) DOI: 10.1080/034687508022150242 Bottom-up: 下意上達 Legitimation: 正当 Organization: 組織 P
実際の所、不思議な話なんだ。 3月10日の東京大空襲は... 対日戦略爆撃での被害者数は調査機関によって30~55万名までのばらつきがあるけど、これは核兵器による被害差が多くを占めているのであって、通常爆撃では17万名弱~22万名強の範囲内に収まっている。 加えて3月10日の被害も最小で8万3千名、最大で10万名以上とされているから極端な差はない。 つまり「核兵器を除いた対日戦略爆撃による死者」の過半数が3月10日の東京大空襲で生じたのはほぼ間違いないと言える。 ここで着目したいのは「3月10日の爆撃は特殊だったのか?」と言う事だ。 確かに3月10日以前に比べれば夜間、低高度、焼夷弾使用の点で特殊と言える。 だが3月10以降の爆撃に比べればなんら特殊な点は見られない。 東京の地理的特性だろうか? そんな事はない。 木造家屋だろうが交雑した河川だろうが、日本の港湾都市ではどこでも当たり前の要
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