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Historyとセルクマに関するbeth321のブックマーク (6)

  • 「なう」の最初のポスト - AOI-CAT's diary

    まえがき Twitter、サービス開始から現在まですべてのツイートが検索可能に -INTERNET Watch Twitterの過去検索の話題を見かけて、誰が最初に「なう」ってポストしたのという記事も見ました。 該当ポストだけを「これ」と出してるだけの記事を見て、いくらなんでも記事としてどうか、全体の一部だとしても手を掛けなすぎる、と思い色々やってみました。 追記 削除されたアカウントやprotectedなアカウントがあるため、「最古のなう」は検索から特定できません。 あくまでも、最初期の「なう」がわかるだけです。 数える 最初の投稿からその年の年末まで「なう」を含む投稿数の一覧です。 手動で数えられるくらいしかありません。いつ人口に膾炙したのか、意外と時間がかかったみたいですね。これは調べ切れてません。(……っていうか検索漏れしてたりしないよね?それとも鍵付きやアカウント削除が多いのか)

    「なう」の最初のポスト - AOI-CAT's diary
  • 渋谷系と声優とレーベルの話 - AOI-CAT's diary

    はじめに 少し前に「渋谷系と声優と私」みたいな文章がちょっと話題に上がりました。 花澤香奈さんと竹達彩奈さんの音楽活動に渋谷系の流れがあって、当時の渋谷系うんぬんって。 でもそれって「渋谷系と私」*1の話題であって、なんか違うなと。 だったら自分の主観を書いてみよう、というのがこの記事の半分。もう半分は客観、というか図表です。 基的にアニメ・ゲーム・声優側の人で、渋谷系については良くは知らないという方向けです*2。 おまけに、ポップンプレーヤーだけにわかる話をつけておきました。 ふたりのキープレイヤー 話の中心は、花澤さんのプロジェクトの北川勝利さん(ROUND TABLE)と、竹達さんとこの沖井礼二(FROG, 元Cymbals)です。いわゆる「渋谷系」の話だとまず、ピチカート・ファイヴ、フリッパーズギターとなりがちですが。 ROUND TABLEは90年代半ばのいわゆる渋谷系全盛期く

    渋谷系と声優とレーベルの話 - AOI-CAT's diary
  • 「人身売買・奴隷・拉致の日本史」渡辺大門 いかなる時に奴隷化は許されたのか - 月記

    人身売買・奴隷・拉致の日史 作者: 渡邊大門 出版社/メーカー: 柏書房 発売日: 2014/03 メディア: 単行 この商品を含むブログを見る たまに日に奴隷はいなかったと思っている人がいるみたいだが、当然そんなことはない。歴史書に奴婢・生口・下人などの名前で出てくるのがそれである。彼らは良民に隷属し、譲渡・売買・相続の対象になった。このは古代から戦国時代までの歴史書に登場するそれら奴隷の例が載せられているが、なかでも「良民から奴隷になることの禁止」について触れたものが目立つ。 労働力として奴隷を求めるものは多いが、社会全体にとってみれば必ずしも奴隷は好ましいものではない。律令制度では奴婢に対して良民より少ない口分田が与えられていたが、不輸不入の権を持つ荘園で働かされれば全く税がとれなくなる。限られた土地で奴隷労働をさせ他の土地を荒れるに任せるよりは、農民にそれぞれ土地を与えて耕

    「人身売買・奴隷・拉致の日本史」渡辺大門 いかなる時に奴隷化は許されたのか - 月記
  • 「東欧これくしょん」(仮) - Danas je lep dan.

    以前艦これのパクリとしての東欧諸都市擬人化というネタを口走ったところmahalさんから素晴らしい提案があった。支配者が変わったらその度に市娘の名前が変わるんですかね>東欧の諸都市https://twitter.com/Mahal/status/460723822904102912 それいい。 取り敢えず支配地域の行政を競うゲームみたいな感じで,初期都市としてベオグラードとリヴィウとドゥブロヴニクのどれかを選んで,どんどん支配地域を増やしていく。お気に入りの都市は「首都」に設定しよう。たまに外敵の襲来があったりなかったり(「鼻血族」というあんまりな名称の敵を思いついた)。新都市は資材を集めて築城したり他国への侵略任務をこなすことで手に入るとか。外敵との戦争に負けて「劫掠」されると衣服が破ける仕様でお願いします。首都が劫掠されたら即講和が基戦略で。 で,たとえば初期都市でベオグラードを選んだ

  • ファミコン時代にナムコブランドとして出された他社制作のソフト

    もう二十年以上昔の話になりますが、実はファミコン時代にはサードパーティ、すなわち任天堂及び任天堂直下の会社以外は年間に出すソフトの数に制限が加えられていたというのをご存じでしょうか。これは任天堂の方針で、供給過剰や粗製濫造を起こさせないための対策だったと言われています。 しかし、ファミコンに早期から参入したサードパーティは、その初期ライセンス企業の優遇処置として数制限なし、自社ラインで生産可能等といったメリットがあったようです。その対象企業はハドソン、ナムコ、タイトー、コナミ、カプコン、ジャレコの六社。 そのうち、ナムコはその特権で他社の制作したソフトを自社のブランドで出し、ライセンス料をもらうという方法を始めます。 この後、これの問題から優遇処置打ち切り、そして裁判沙汰にまで発展して、任天堂とナムコの関係が悪化していったと言われています。ちなみにこの時のゴタゴタが後を引いて、ナムコを

    ファミコン時代にナムコブランドとして出された他社制作のソフト
  • 「ゲーセンは終わった」と言われ続けた歴史 - ゲームミュージックなブログ

    ネット上を見ていると「ゲームセンターは終わった」という言葉をたまに見つけることがあります。これはおそらく  ただ、昔からゲーセン通いの人はわかるとは思いますが、この「ゲーセンは終わった」という台詞、今に始まったことではなく、昔から言われていたのですよね。それは10年やそこらではなく、おそらく30年はさかのぼれると思います。  というわけで、今日はゲームセンターがピンチと言われた歴史を辿ってみたいと思います。 ★スペースインベーダーブームの終演(1979年~1980年)  1978年、『スペースインベーダー』が大ブームを超える社会現象にまでなり、アーケードゲームが大発展したのは多くの人が知るところでしょう。  しかしブームは翌年には収束してゆきます。すると今までインベーダーブームに乗じて次々と出来ていたゲームセンターやインベーダーハウスの収益が一気に落ち込むことになります。  しかも当時、ゲ

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