富雄丸山古墳で木棺出土 富雄丸山古墳で出土した木棺。小口板が垂直に立った状態で見つかった=6日、奈良県奈良市(南雲都撮影) 国内最大の蛇行剣や盾形の銅鏡が見つかった奈良市の富雄丸山古墳(径109メートル、4世紀後半)の埋葬施設「粘土槨(かく)」から、被葬者を納めた割竹形(わりたけがた)木棺が築造時に近い状態で出土し市教育委員会が6日、発表した。石棺などにみられる「縄掛突起(なわがけとっき)」が見つかり、割竹形木棺で確認されたのは初めて。木棺の構造を知る上で重要な資料としている。 木棺の蓋(ふた)は全体の3分の1が確認され、身(本体)も大半が残っているとされ、これほど当時の姿をとどめているのは全国的にも珍しいという。副葬品については金属探知機で反応があり、今後内部の土を取り除いて調べる。 同古墳は国内最大の円墳。粘土槨は墳丘から張り出した「造り出し」にあり、木棺を粘土で覆う構造。昨年度の調査
","naka5":"<!-- BFF501 PC記事下(中⑤企画)パーツ=1541 -->","naka6":"<!-- BFF486 PC記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 --><!-- /news/esi/ichikiji/c6/default.htm -->","naka6Sp":"<!-- BFF3053 SP記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 -->","adcreative72":"<!-- BFF920 広告枠)ADCREATIVE-72 こんな特集も -->\n<!-- Ad BGN -->\n<!-- dfptag PC誘導枠5行 ★ここから -->\n<div class=\"p_infeed_list_wrapper\" id=\"p_infeed_list1\">\n <div class=\"p_infeed_list\">\n <div class=\"
京都市中心部と山科盆地を隔てる東山丘陵にある旭山古墳群(山科区)で、民間調査会社「文化財サービス」(伏見区)が古墳4基を調査し、2基が古墳時代終末期(7世紀代)では大規模な方墳だったことを確認した。同社はこの地を拠点にして政権の中枢を握っていた藤原氏の初代当主、鎌足(かまたり)を輩出した中臣(なかとみ)氏の墓の可能性が高いとしている。 【地図】東山丘陵にある旭山古墳群 東山浄苑(本願寺文化興隆財団)の新施設建設に伴いA~Eの5支群からなる古墳群のうち、いずれも山に囲まれた丘陵地中腹にあるB支群(計6基)の4基を調査。その結果、周溝が北と東西の3方を巡る方墳3基と周溝のない小墳1基が出土した。 4基とも横穴式石室で一緒に出た土器から7世紀後半の築造と判明。方墳3基のうち2基が一辺約8メートルと、規模が縮小傾向だった終末期では大型の部類に入るという。石室内に目立った副葬品は確認されず、奥や側壁
全国には約16万基の古墳があります。この数はコンビニの約3倍!古墳の形も「前方後円墳」だけではなく「前方後円墳」の円の部分が四角の「前方後方墳」や「円墳」「方墳」「八角墳」、キャンディーのような形の「双方中円墳」など、10種類以上の形が存在します。 そんななかでも全国に数基しか存在しない珍しい古墳「上円下方墳(じょうえんかほうふん)」。こちら、なんと東京都内にもあるのです。 それが府中市にある「国史跡 武蔵府中熊野神社古墳(くにしせき むさしふちゅうくまのじんじゃこふん)」。 武蔵府中熊野神社古墳は、西府駅から徒歩約10分の熊野神社の後ろに鎮座していますが、石でビシーッと覆われていて「え? これ古墳なの?」と思ってしまうような見た目! 「土でもっこりしていて緑色」の古墳のイメージからだいぶかけ離れていますよね。造られた当時の姿に復元整備されているそうですが、こんな近代的な建造物が古代に造ら
神戸市垂水区の海辺からほど近い閑静な住宅街に、全長194メートルという巨大な前方後円墳「五色塚古墳」が横たわっている。 大きさでは全国で約40番目、誰もが古墳の頂上にまで登ることができる。そもそも古墳といえば、樹木が茂り、森のようになっているので、仮に登ることができても、頂きからの景色は期待できない。ところが五色塚古墳は、1975年に約1600年前の姿に復元され、古墳の上からは淡路島や明石海峡大橋が望める絶景が楽しめるのだ。 また、この古墳に眠る人物は「この周辺を支配した豪族」といわれているが、いまだに正確に誰であるかは明らかになっていない。そのミステリアスな成り立ちもあってか、パワースポットとしても注目され、兵庫県内だけでなく関東や九州からもこの古墳を訪れる人が後を立たず、特に若い女性が多いという。 謎の多い五色塚古墳だが、誰によって、なぜこの地に造られたのか、五色塚古墳を管理する神戸市
","naka5":"<!-- BFF501 PC記事下(中⑤企画)パーツ=1541 -->","naka6":"<!-- BFF486 PC記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 --><!-- /news/esi/ichikiji/c6/default.htm -->","naka6Sp":"<!-- BFF3053 SP記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 -->","adcreative72":"<!-- BFF920 広告枠)ADCREATIVE-72 こんな特集も -->\n<!-- Ad BGN -->\n<!-- dfptag PC誘導枠5行 ★ここから -->\n<div class=\"p_infeed_list_wrapper\" id=\"p_infeed_list1\">\n <div class=\"p_infeed_list\">\n <div class=\"
"仁徳天皇の墓"とされる『大山古墳』...しかし出土品や没年などから「仁徳天皇の墓ではない」と専門家の間で論争が 一体誰の墓なのか? 世界遺産にも登録された大阪府堺市にある「大山古墳」は、『仁徳天皇陵』として仁徳天皇の墓だと学校でも教えられています。しかし、専門家の間では「仁徳天皇の墓ではないのではないか」と論争が起きています。では一体誰があの巨大な前方後円墳に眠っているのでしょうか。 “仁徳天皇の墓”とされる日本最大の前方後円墳『大山古墳』 去年11月、普段は立ち入り禁止の場所にカメラが入りました。日本最大の前方後円墳である大阪府堺市の「大山古墳(仁徳天皇陵)」です。 天皇の墓として管理する宮内庁が「古墳の保全工事に向けて堤の遺物を調べるため」として堺市と発掘調査を行ったのです。 その結果、前方後円墳を囲む堤の内側から今回、初めて「円筒埴輪列」が見つかりました。築造時は堤の両側に埴輪列が
奈良県明日香村教委と関西大は26日、中尾山古墳(同村平田、8世紀初め)の発掘調査で、墳丘が正八角形の八角形墳と確認したと発表した。世界遺産登録に向けた初の本格調査で、3段築成の墳丘の周囲に3重の石敷きを巡らせていたことや、埋葬するための石室の具体的構造など全容が判明した。八角形の墳丘は飛鳥時代後半の天皇陵の特徴で、701年に大宝律令を制定したことで知られる文武天皇(683~707年)が被葬者であることが確定的になった。 1974年の調査で、八角形墳との推定や横口式石槨(せっかく)(石室)を持つ火葬墓であることなどが指摘されていたが、詳細は不明だった。
30年以上、古墳とされてきたが実は…。諏訪郡下諏訪町社の「ふじ塚古墳」が、経文を記した石を埋納した中近世の経塚だったことが30日、県埋蔵文化財センター(長野市)の発掘調査で分かった。周辺には古墳時代後期の円墳が点在、1986(昭和61)年時点で町は古墳と見なしていた。今回、手のひらサイズの平たい石に1字ずつ経文が書かれた「経石」がまとまって出土。富士山を望める立地から、富士山信仰との関わりも指摘されている。 直径約10メートルの円形の盛り土で、諏訪湖を見下ろす標高約830メートルにある。国道20号下諏訪岡谷バイパス建設に伴いセンターが9月から調査。経石は出たが、古墳の痕跡や古墳時代の遺物は出ていない。 センターによると、一緒に見つかった陶磁器のかけらなどから、戦国時代から江戸時代に築かれたとみられる。1733(享保18)年に高島藩の5代藩主、諏訪忠林(ただとき)(1703〜70年)が領内を
定員に達していない時間帯は第二次応募・当日受付も行います。 公開時間:9時30分~16時30分 ※最終受付は16時15分です。 閉 室 日:8月7日(水)、8月21日(水) ※悪天候等により公開を中止する場合があります。 ※当選・落選に関するお問合せはご遠慮ください。 ※地階展示室は申し込み不要、無料です。 壁画公開にあわせて、事前に観覧していただくと、よりお楽しみ いただけます。 ※取得した個人情報は原則、当該公開に係る連絡以外には使用しませんが、 必要に応じて保健所などに提供する場合がありますので、予めご了承下さい。 ※期間中に感染発生が確認された場合には事務局ホームページにてその情報を提出いたします。 お客様ご自身での来場日時の記録をお願いいたします。 公開場所 キトラ古墳壁画保存管理施設 キトラ古墳壁画体験館 四神の館1階 国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区内(奈良県高市郡明日香村
古墳というものがある。簡単に説明すれば権力者のお墓のことで、世界最大級の墳墓である「大仙陵古墳」や、卑弥呼の墓と言われている「箸墓古墳」などが有名だろう。 ただし、有名な古墳はほんの一部で、多くは名も知れぬ古墳だ。日本には15万を越える古墳が存在する。そんな数ある古墳の中から、雑に扱われている古墳を巡ってみようと思う。
副葬品ずらり出土=畿内と同等、有力者の墓か−未盗掘、4世紀の古墳・新潟 副葬品ずらり出土=畿内と同等、有力者の墓か−未盗掘、4世紀の古墳・新潟 新潟県胎内市教育委員会は6日、同市大塚にある4世紀前半の「城の山古墳」の木棺から、勾玉(まがたま)や大刀(たち)などの副葬品が100点以上出土したと発表した。古墳は盗掘されておらず、副葬品の保存状態は良好という。 大和政権があった奈良県などの古墳と同等の副葬品がまとまった形で見つかったことで、市教委は「被葬者は畿内の有力者と太いパイプを持っていた。全国的にも重要な古墳だ」としている。 城の山古墳は長径41メートルの円墳で、古墳時代前期中ごろに造られたとみられる。同時期の古墳では日本海側で最も北にある。市教委は1997年に墳丘周辺の調査を始め、今年4月から木棺を調べていた。(2012/09/06-14:57)
水鳥形埴輪が計23体となり、全国最多の出土数になった古墳時代中期(5世紀前半)の王墓とされる「池田古墳」(兵庫県朝来市)。埴輪の形状などから、大和朝廷との深いつながりが一層強まった。 水鳥形埴輪は、墳丘東側のくぼみ部分にある「造り出し」と呼ばれる祭祀(さいし)場から東西約14メートルにわたって出土。8体のうち、脚台つきの1体(高さ48センチ、幅21センチ、長さ44センチ)はほぼ完全な形でみつかった。他の7体は壊れ、破片状態の頭部のみで判断。埋葬者の魂を、あの世へ運ぶ意味を込めておかれたらしい。 当時、大和朝廷の支配下だった「旦波(たにわ)王国」があったとされ、但馬など3地域を治めていた。水鳥形埴輪は大和朝廷でつくられていたものと同様のもので、朝廷が因幡(鳥取県)へと勢力を広げていく際、この地域を重要視していたことを示すものとみられる。 これまでに応神天皇陵ともされる誉田御廟山(こんだごびょ
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く