なぜ蔦重は、自ら狂歌師になったのか?のちに蔦重(つたじゅう:蔦屋重三郎の当時からの略称)のもとで手代をしながら才能を開花させた作家、『南総里見八犬伝』で知られる曲亭馬琴は、蔦屋重三郎のことを次のように書いています。 「顧(おも)ふに件(くだん)の蔦重は風流も無く文字もなけれど、世才人に捷(すぐ) れたりければ、当時の諸才子に愛顧せられ、其資(たすけ)によりて刊行の冊子、皆時好にかなひしかは、十余年の間発跡して一二を争ふ地本問屋になりぬ」(『近世物之本江戸作者部類』) 蔦重は学識がなく、文化的素養を持っていたわけではなかったけれど、人一倍の才覚は持っていて、当時いた多くの賢者たちから愛された。 その結果、出す本がことごとく時代のニーズに合致し、一、二を争う版元としてのし上がった……と。 もちろんアイデア力に優れていたことは確かですが、近くにいた人間からは、「有力な知識人たち皆に愛された」こと