情報温暖化時代、全ての言論は騒ぎすぎ化する。なぜなら、騒ぎ過ぎないと、情報バブルの中で生き残れない。というか目立たない。目立たないと話題にならない。例えば、「日本最初の新型インフルエンザの疑い」で深夜会見し、挙句、「期待外れ」に終わると「騒ぎすぎ」バブルが起きる。新型インフルエンザでなかったのに「期待外れ」とは何事かという向きもあるかもしれないが、事実、人々は期待の祭り状態にあったのだ。 期待外れに終わると、そのエネルギーは巻き戻しで「騒ぎすぎ」の騒ぎすぎという派生的バブルが起きる。 マスコミやネットでは「騒ぎすぎ」がデフォルトで、それ以外の「騒ぎすぎ」でない「騒ぎ」は騒ぎでなくなる。言わばグーグルで5位以内に検索にかからないのは存在しないのと同じ、というのと似たようなものだ。 玄倉川の岸辺:「騒のぎすぎ」の害 マスコミやネットで見かける「騒ぎすぎ」論者の多くは騒ぎすぎという言葉を投げつけ