李氏朝鮮の漢城で生まれた。金尚吉(官吏)の二男[2]。 大韓帝国の武官学校[注釈 2]を経て、1909年(明治42年)9月、大日本帝国の陸軍中央幼年学校予科(後の陸軍予科士官学校)に入校[2][注釈 3]。 1909年当時韓国人は嘲笑の的であり、とくに韓国人学生の学生監であった小倉少佐[注釈 4]の行為はひどく、金錫源は怒りを抑えるため祖母がくれた山の神霊像に合掌していたという[9]。韓国が合併されたと聞いて失意の日々を送っていたが、やがて日本人より良い成績を上げて韓国人の気概を高めようとし、熱心に勉強に励んだ[10]。これにより韓国人は劣等民族ではないと証明し、またそれによって日本人が韓国人を無視することができなくなるだろうと考えた[10]。戦術学や地形学などの軍事学に関する成績は優秀な方だったが、一般学科で、その中でもロシア語は殆ど落第点に近い成績だった[11]。 1915年5月25日