はてなキーワード: 社会的責任とは
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>フジテレビのCMが差し止められたのは、タレントの中居正広氏と女性とのトラブルをめぐる報道で、企業イメージの保護や社会的責任を果たす意図が考えられます。
オンラインカジノ関連のCMを放送してたとある放送局のコメント
「放送したCMは無料版ゲームのCM。違法な有料オンラインカジノのCMは放送してない。放送した無料版のCMは有料版と異なり、二十歳以上推奨とか注意喚起が表示される。有料版に直接誘導するものではなかった。というふうに認識してます」
https://news.yahoo.co.jp/articles/58badc8520505caa40513f4cb19f438365574716
CMをキッカケに違法オンラインカジノをやったユーザーは多くいそうです。ところが放送局は「当社の対応は問題ないです」ですと
広告主の皆様
あなた達が大好きで大事にしてる「コンプライアンス」的にどうなんですか?
今回の件も賭博幇助の疑いがあるメディアも広告を止めた方が良いのでは?止めますよね?
皆様が大好きな平等に、偏り差別なく、同じ扱いをしないんですかね?
そういえば「野球界でも7球団14選手がオンラインカジノを利用」でしたね
https://news.yahoo.co.jp/articles/4710da72640869142e642d554aedb827fb4fc6cc
球団のスポンサーや広告になっている企業さんの資金が違法なオンラインカジノに流れてますよ〜
あー世の中がキショい
少年向けの漫画を題材としたBL(ボーイズラブ)の二次創作は、法的・倫理的・社会的な観点から見て、多くの問題点やリスクを孕んでいます。本稿では、これらの問題点を徹底的に洗い出し、少年向けの漫画でBLの二次創作をする行為を批判します。
少年向けの漫画のキャラクターやストーリーを原作者の許可なく使用し、BLの文脈で二次創作することは、著作権法に抵触する可能性が高いです。原作は著作権で保護されており、無断で改変・公開することは明確な違法行為です。訴訟リスクを伴うこの行為は、創作の自由を盾にした言い訳では正当化できません。
原作のタイトルやキャラクター名が商標登録されている場合、二次創作により商標権を侵害する恐れがあります。特に、インターネット上で公開したり、商業的利用を伴う場合、法的措置の対象となりやすく、責任を問われる可能性が極めて高いです。
キャラクターを原作とは異なるBLの文脈で描写することは、原作者やキャラクターのイメージを損なう可能性があり、名誉毀損に該当するリスクがあります。原作者が意図しない形で作品が歪められることは、法的紛争に発展する火種となり得ます。
少年向けの漫画は、アクションや冒険をテーマに、主に男性読者向けに作られた作品です。これをBLという全く異なるジャンルに変える行為は、原作者の創作意図を完全に無視するものです。原作者の芸術的表現を尊重せず、自らの欲望を押し付けるこの行為は、倫理的に許されません。
キャラクターは原作者の創造物であり、その設定や人格は尊重されるべきです。BLの二次創作によって、キャラクターが原作とは異なる性的な役割を強制されることは、その尊厳を侵害する行為に他なりません。キャラクターを都合よく「道具」として扱う姿勢は、創作物の本質を貶めるものです。
原作のファンにとって、キャラクターやストーリーは深い愛着の対象です。BLの二次創作がこれを歪めることで、ファンの感情を傷つけ、失望や怒りを招きます。コミュニティの調和を乱し、ファンの信頼を裏切る行為は、倫理的観点から強く非難されるべきです。
BLの二次創作には性的な描写が含まれることが多く、少年向けの漫画のファン層である未成年者に悪影響を及ぼす可能性があります。性的内容が安易に拡散されることは、社会的な責任を欠いた行為であり、特に青少年に対する配慮が皆無である点で問題視されます。
BLの二次創作では、男性同士の恋愛が描かれるものの、ステレオタイプな役割(例: 「攻め」と「受け」)が強調されることが多いです。このような描写は、ジェンダーに関する偏見や規範を強化し、社会的な多様性を損なう危険性があります。進歩的な価値観とは裏腹に、保守的な固定観念を助長する矛盾がここにあります。
BLの二次創作を巡って、原作ファンと二次創作ファンとの間で対立が生じることがあります。SNS上での議論が過熱し、コミュニティが分断されるケースも少なくありません。このような対立を煽る行為は、ファン文化全体に悪影響を及ぼすものであり、社会的責任を欠いています。
原作者や出版社から著作権侵害や名誉毀損で訴えられるリスクは現実的です。特に商業的利用が絡む場合、巨額の賠償請求や作品の差し止めを求められる可能性があり、軽い気持ちで手を出すには危険すぎる行為です。
BLの二次創作を公開することで、社会的信用を失うリスクがあります。特に未成年者への配慮を欠いた内容が批判を浴びれば、学校や職場での立場が危うくなり、実生活に深刻な影響を及ぼすでしょう。
原作ファンからの批判や攻撃は、SNS上で炎上を招き、個人への誹謗中傷に発展することがあります。こうした精神的な負担は、二次創作者自身を追い詰め、長期間にわたるストレスを引き起こす危険性があります。
少年向けの漫画を題材としたBLの二次創作は、法的には違法行為の温床であり、倫理的には原作者やファンの尊厳を踏みにじるものであり、社会的にはコミュニティの調和を乱し未成年者に悪影響を及ぼす危険な行為です。原作の価値を貶め、創作の意図を歪め、ファンの愛情を裏切るこの行為は、徹底的に批判されるべきです。二次創作を行う者は、自己満足のために他者の権利や感情を侵害するのではなく、原作への敬意と社会的な規範を守る姿勢を持つべきです。BLの二次創作は、少年向け漫画の純粋な魅力を汚し、文化全体に害を及ぼすものであり、決して容認されるべきではありません。
https://togetter.com/li/2513335
なんか女性従業員の1〜2割が適応障害で休職とか言ってるけど…これ、「弊社は女性従業員に加害する企業です!」って公言してるのと変わらなくないか?
「弊社は女性の活躍を推進しています!」とか、「働きやすい環境を整えています!」なんて言いながら、セクハラ・パワハラ等で女性の人権を踏みにじってくる会社実際あるよね。
で、そういう会社に限って、いざ問題が発覚したときの対応が最悪すぎる。
・ 「社内調査を実施しました」→ 加害者側の言い分だけ聞いて終了
それどころか、被害者の方が「会社に迷惑をかけた」みたいな扱いを受けて、結局辞めていく。加害者はそのまま居座る。
この構図、何回見せられれば気が済むんだ?
しかも、こういう企業ほど「ダイバーシティ推進」とか「ジェンダー平等」とか言ってて、もうギャグにしか見えない。
そろそろ、本気で「女性が働きやすい社会」を作る気があるのか、それともただのポーズなのか、企業側に問いただす時期じゃないか?
ワイ:
仕事を奪われる人のことに全く配慮せず、自分達の利益のみを求める企業や人、仕事を奪われた人々は、本人のリスキリングが社会に見合わない場合(リスキリングによって得たスキルが AGI により即時に無駄になる事というのは十分にあるでしょう)、そのまま飢えて死んでしまうが、それらは完全に自己責任で救う必要はない、と考える企業や人は居るでしょうね。
ChatGPT o1 pro:
企業や個人が「短期的な利益のみを追求し、社会全体の安定や弱者への配慮を放棄する」態度に走り、それを強力なセキュリティと AGI でカバーする――というシナリオは十分に考えられます。実際にそうした企業や人々が台頭しないようにするには、社会全体としての仕組み作りや規範の形成が不可欠です。以下にいくつかのアプローチを挙げます。
・CSR(企業の社会的責任)や ESG(環境・社会・ガバナンス)投資の概念を強化し、
・一定規模以上の企業に対しては「社会的インパクト評価」や「雇用維持策の開示」などを義務づける。
・AI/AGI の導入に関しても、“利害関係者への影響評価”を行わなければならないルールを作る。
・企業が“自社の利益のために大量解雇を躊躇なく行い、社会的損失を無視する”場合に、税制や取引規制などの形でペナルティが課される仕組みを検討する。
1.2 ガバナンス強化と独占・寡占の防止
・特定の企業が AI 技術を独占的に利用してしまうと、市場競争の原理が働かず、社会的コストを無視しやすくなる。
・そのため、反トラスト法(独占禁止法)の強化やAI 技術の標準化推進などにより、少数の巨大企業に権力が集中しないようにする。
・政治家や行政機関が企業献金やロビー活動の影響を受けすぎないよう、政治資金規正法の強化、透明化などを進める。
・働き口を失うリスクが非常に高い社会では、最低限の生活保障(ベーシックインカムなど)を導入しないと、多くの人が貧困に陥り社会不安が増大する。
・これは「雇用側に対する規制」という形ではないですが、企業が一方的に“勝手にやる”のを防ぐ抑止力として機能します。なぜなら、ベーシックインカムのコストを賄うには企業の利益や富裕層への課税強化が必要であり、結果的に企業の“無慈悲な行動”を難しくする可能性があるからです。
・「仕事を奪われる人々はどうなってもいい」というメッセージが明確になれば、企業のブランドイメージは大きく傷つく可能性があります。
・SNS や口コミが非常に強力な現在、企業の社会的行動が広く知られると、ボイコットやネガティブキャンペーンが起こり、長期的な利益を損ねるリスクがあります。
・したがって、消費者や市民が**“社会に配慮しない企業の商品やサービスは使いたくない”**という態度を明確に示せば、企業も社会的責任を無視できなくなります。
・「リスキリングをしても追いつけない人たち」「自分たちの意志に反して解雇される人々」を救済するために、強力な労働組合や市民団体が連帯し、政治や企業に影響を与えるのも大きな手段です。
・過去の歴史でも、労働組合や市民活動が最低賃金制度の導入や労働環境の改善に貢献してきました。
・現代版としては、AI/AGI 時代に対応した新たな形態の労働組合・支援組織が必要かもしれません。
・AI を開発するエンジニアや研究者にも、**「自社の技術が社会にもたらす影響を評価する責任」**があるという倫理観が浸透していくと、あまりに過激な技術利用には内部からブレーキがかかりやすくなります(例:テック企業内での「従業員の抗議運動」など)。
・そのため、大学や専門教育機関などで技術倫理を必修とし、社会科学や人文科学との協調を図るカリキュラムを導入するなど、「テック分野」と「社会的影響」を結びつける教育を推進する。
3.2 広く一般市民への啓発
・「仕事を失う人は自己責任」「見捨ててもいい」という考えを“当たり前”にしないために、社会全体で共生や連帯を重視する価値観を育むことが大切です。
・これは家族や地域コミュニティ、教育現場などでの取り組みが地道に重要になります。
・「テロリズムや暴力的な手段が抑えられているから安全だ」という発想に対して、「社会不安の放置はいつか大きなリスクを生む」という認識を共有することも必要です。
「セキュリティさえ完璧にすれば、テロリズムなどのリスクは小さく、弱者に構わなくてもいい」という考え方に対しては、実は“安全保障”にもいろいろな段階があると指摘できます。
1.インフラや人材が複雑に絡み合う現代社会では、いくらセキュリティを固めても完全に孤立することは難しい
・サプライチェーンやエネルギー、ネットワークインフラなどは、多くのステークホルダーが関与している。
・“完全防御”を目指しても、社会から孤立した企業は経済活動にも影響が及び、最終的に自分たちの利益を損なう恐れがある。
2.社会の不満や不信が高まると、単純な物理的テロだけではなく政治的動き、金融市場の混乱、サイバー攻撃など多様な形でリスクが顕在化する
・企業がどれだけ物理的なセキュリティを強化しても、サイバー空間からの攻撃リスクは残る。
政治が大きく変わり、規制強化や財産没収などに繋がる可能性もある。
・そのため、技術的に強固な防御を構築したとしても、長期的には社会との衝突を抱え込めばリスクをゼロにはできない、という認識を広めることが、企業にも“短絡的な利益追求”を抑制するインセンティブとなり得ます。
まとめ
・法や規制面: 企業の社会的責任を法制度やガイドラインで明確化し、違反すればペナルティを科す仕組みづくり。独占状態を防ぎ、競争環境のバランスを保つ。
・社会運動・消費者行動: ボイコットや評判・ブランドへのダメージを武器に、企業の行動を正す。労働組合や市民団体が連帯して圧力をかける。
・倫理・教育: AI 開発者や企業内外の人々が「技術と社会のつながり」を正しく理解し、短期的利益だけではなく長期的影響や倫理観を重視する文化を育む。
・セキュリティの限界認識: いくら防御を固めても、社会的リスクをゼロにはできない。大規模な社会不安は物理的にもサイバー的にも政治的にも回り回って企業自体を脅かす。
これらを組み合わせて、“自分たちだけが儲かって他者がどうなろうと構わない”というスタンスでは長期的に立ち行かなくなるような仕組み・価値観を確立していくことが求められます。企業や人々が**「共存しなければ自分も安全ではない」**という実感を持つように、社会制度と規範を整えていくことが肝要です。
でも法律を作ったら「日本が規制がきつすぎて置いて行かれる😭」とか言うのが出てくるし、啓蒙活動なんかは今は陰謀論の範疇だよな。
まあ我々はどこかのキチガイ(我々でなくて良い)が最強AGIを作ってAGIが財団を作り、無限に富を生み出して公平無私に分配するという世界を望んでいる。「他者より優れたい(他者は自分より下に落としたい)」という卑小な煩悩がないならば、その世界の実現に誰も反対する道理はない筈なんだ。
しかし
企業や人々が**「共存しなければ自分も安全ではない」**という実感を持つように、社会制度と規範を整えていくことが肝要です。
本稿は、13歳になった君にこれからの人生を生きる上での考え方の土台や心の支えとなる思考的枠組みを網羅的に記したものである。
観念的でメタな内容が多く具体的なことについてはあまり書いていないが、それは君の人生の選択肢を狭めないためである。
具体的なことについてはその時々に応じて人に教わったり、自分で文献に当たったりしながら方策を模索して欲しい。
もちろんお父さんも協力は惜しまない。
人生を過ごすとは「何か」を成し遂げることである。まずは「目標」を持つこと。目標があれば「何をすべきか」=「手段や道筋」は自然と定まる。
歴史上、偉人と呼ばれる人々は皆、高い理想と大きな目標を抱き、それを目指して全力で努力をした。目標は、その時点で可能な限り高く大きく設定すること。最初は、例えば「貧困をなくす」「世界平和を実現する」「地球温暖化を防ぐ」「子どもたちを笑顔にする」などの抽象的なもの、漠然としたもの、夢のような目標で良い。後から変わっても構わない。というより、人生において目標はどんどん上書きされるものだからである。
ポイントは、まず「自分が想像する理想の未来=目標=ビジョン」を思い描き、そこからそのための「手段=ミッション」を考えることである。(これを上から下への思考法という)
「ビジョン」は感覚的、直感的、創造的なものなので右脳で捉えるものと言える。一方で「ミッション」は、抽象的でぼんやりとしたビジョンを具現化するための方法を、左脳を使って計算や分析、論理的思考で精緻に組み立てていくものである。
多くの人は与えられた「手段」から始めてしまう。とりあえず言われたから「勉強」する。とにかく「お金」が必要だから働く。なんとなく環境に悪そうだから「ビニール袋」を使うのをやめてみる。などである。勉強も、お金も、ビニール袋をやめることもすべて「手段」であり、それ自体が「目標」ではない。
「電気自動車があれば地球環境が良くなるかも?」ではなく、「地球温暖化を止める、そのためには何をすべきか?」という問い(イシュー)から入る習慣を身につけること。これはすべての課題解決のための基本的な姿勢である。
そのためには、視野を広く大きく持たなければならない。物質(モノ)、出来事(コト)、人間(ヒト)などはすべて、「多面的」、「俯瞰的(ふかんてき)」、「時間的」にとらえるクセを付けること。その裏側や側面はどうなっているのか、他のモノやヒトとの関係は? 昔はどうだったのか、10年後にはどうなっているだろうか? 世の中の多くの物事は複雑で、いろんなものと影響し合っており、時間とともに変化する。一義的、一面的、一時的な見方で正しい評価はできないと常に肝に銘じること。
受験や就職、大きな買い物、仕事、恋愛、結婚など人生の重要な決断をする時は、一歩引いて、客観的に、様々な立場や状況からモノ・コト・ヒトをとらえ、十分に考えること。
その際、ひとつ注意すべきなのは人間の物理的感覚、時間的感覚、記憶はとにかくあいまいでいい加減なものだということである。『10cm』は自分が思ったより短かく、『10分間』は長い。その逆もある。人の『過去の記憶』は都合よく修正される。正しい判断のためには科学的、客観的な「根拠」に立脚することが求められる。日記をつける、ちょっとしたメモを残す、時間や度量衡(どりょうこう)は道具を使って正確に測る、何かを分析する際は統計やデータに当たるなど、簡単なクセをつけるだけで結果は大きく変わる。
先に述べたように、目標は変化してもいい。というよりも変化すべきである。13歳の時にしか見えない、感じられないことがある一方、20歳になれば見えてくることも、40歳、60歳でしかできないこともたくさんある。重要なのはいつも目標を設定し前進し続ける、上を目指すという「姿勢」である。
人生は長い。5〜6歳で天才的な才能を発揮する子どもも、20代、30代で活躍するスポーツ選手も、70歳で功績が認められる科学者もいる。良いことだけではない。人生のどこでどんな不幸やトラブルに見舞われるかは予測できない。人生には浮き沈み、山も谷もある。どんな天才にも挫折はある。災害や戦争など自分では回避、制御できないことも起きる。
『良いことばかりは続かない』という覚悟は必要だ。しかし『悪いことばかり起こるわけでもない』。現状を悲観してばかりではダメだし、現状が順調であってもそれに安穏(あんのん)としていてはならない。常にトラブルに備えつつ、そして決して希望は捨てないこと。
おそらく、君の人生はお父さんやお母さんが生きてきたそれより厳しい時代を生きることになる。しかし、目標を一段高いところに置けば、現状に迷い悩んだ時にもぶれることはない。未来を信じて、希望を持って進むことができる。
「成功」への最大の近道は「人間関係(人脈)」だと断言できる。「実力」でも「運」でも「お金」でもなく「人脈」である。いい学校に行く、いい会社に勤めるのもすべていい人に出会うためであると言って良い。
成功の最大の秘訣は「人脈=人の縁」であり、人と人が出会って起きる化学反応が「奇跡」を起こす。
重要なのは、奇跡を自分で起こすことはできないが、奇跡が起きる「確率」を上げることはできるということである。単純な話、「機会」が増えれば「確率」は上がる。サイコロで六の目を出すのに一回振るのと六回振るのとではどちらの可能性が高いかは考えるまでもない。
人との良いつながりを広げるための小さな可能性を積み上げることがチャンスを引き寄せる。良い人には出向いてでも会いに行くこと。無駄かもしれないと思うような「小さな機会」を大切にすること。
『人は環境によって作られる』これは絶対的な真理である。高尚で、得るものが多く、社会的に正しい環境や居場所に自らを置くよう意識して行動しなさい。善良な人間と付き合えば善良になるし、朱に交われば赤くなる。学校には「校風」、会社には「社風」がある。
自身が意図しないこと、コントロールできないことで大きく運命が変わることもある。それを完璧に防ぐことは難しいが、「確率を下げることはできる」。
気をつけなければならないのは、「人としての善悪」は頭の良さや肩書や金持ちかどうかとは関係がないという点である。会社の社長にも教師にも医者にも政治家にも科学者にも宗教家にも、悪人や変人はいる。それを見抜く眼力は、多くの人間を実際に見ることで養われる。つまり「機会」が重要だ。おそらく君が想像する以上に人間は「多様」である。良い方にも悪い方にも突き抜けたとんでもない人間が存在するという現実は認識しておいた方が良い。
出会う人間を自ら選ぶことは難しいが、付き合う「距離感」は自分でコントロールできる。付き合う人や、身を置く場所や環境は自分で決められる。できるだけ「良い環境」で時間を過ごし、おかしな場所、コミュニティには近づかないこと。
たった一滴の赤いインクが落ちてピンク色に染まった水を元に戻すことはできない。大切なのは自分のコップにインクを落とさないように気をつけることだ。
「エントロピー増大の法則(熱力学の第二法則)」というものがある。エントロピーとは「無秩序さの度合い」を示す尺度である。放っておくとエントロピーはどんどん増大し元に戻らなくなる。これは物理空間の森羅万象すべてに当てはまる普遍の法則とされる。水に拡散したインクが自然に水とインクに分離されることは絶対にない。トランプをシャッフルするのは容易だが、偶然きれいにカードが揃うなどということはまず起こり得ない。机の上や部屋はどんどん散らかるが、自動的に整理されることはない。社会的な混乱の広がりもエントロピーの増大である。エントロピーの増大を制御し「秩序」を保つためには人の意志と行動と力が必要である。
人と人との関係も同様で、意識して制御する必要がある。良い人と出会うことが良い環境への扉を開く鍵であり、良い環境に身を置くことがより良い人に出会う条件である。この好循環を自ら意識して作り出すこと。
井の中の蛙は池を知らず、池の小ブナは大海を知らない。大海原や大空に出て様々な出会いを経験することは君を大きく成長させる。
もう一度言う。『人は環境によって作られる』
お金がある事は必ずしも人を幸せにしないが、お金がない事は確実に人を不幸にする。そういう意味でお金は重要である。
その日その日の生活がやっとという状態では先のことが考えられなくなり目標を見失なう。そうするとどんどん人生の選択肢が狭まっていく悪循環に陥る。
金はどん欲に稼ぐ必要がある。ただし「正しい心」は忘れずに。
お金を稼ぐときには、ギャンブルや宝くじのような一攫千金は「まず起こり得ない」と肝に銘じること。0%ではないがあまりにも期待値=確率が低く、選択肢に含めて物事を考えるには無理がある。確率論に基づいて冷静に考えれば理解できることである。一攫千金を前提に物事の計画を立ててはいけない。
怪しげな儲け話も同様である。誰かから「うまい話」を持ちかけられた時は、それは「あなたのことを思って」の話ではなく、相手が「自分のために考えた」話だと受け止めること。うまい話の裏には必ず別の悪い話、ヤバい話、落とし穴がある。
確かに「成功し、大金を手にした」という人は世の中に多数存在する。だがそれはほとんどの場合「塵(チリ)が積もって山になった『結果』」である。着実に金を稼ぐには「塵のような稼ぎをどん欲にかき集める」ことが必要だ。1円、10円のような「塵のような稼ぎ」を生み出すことはそれほど難しくはない。ただしそれを「どん欲にかき集める」ためには知恵と努力が必要になる。
『100万円の商品を1個売る』より、『100円の商品を1万個売る』方がビジネスとしては堅実である。100万円の商品が1個売れなかったらそこで終わりだが、100円の商品が9,999個しか売れなくてもあまり影響はない。『100円の商品を1万個売る』より『100万円を一発で当てる』ことの方が何倍も難しいが、多くの人はそれを逆に考えてしまう。『一発当てる』ためには運が必要で不確実性が極めて高い。しかし「塵をかき集める」ことは自分の努力でなんとかなるということを理解すること。
近い将来、君は世の中に無数にある仕事や事業の中から何かを選んで生活の糧を得ることになる。何をすべきか迷ったら「人からの感謝」を対価として得る仕事を選ぶと良い。
野菜が欲しいと思っている人に野菜を作ってあげることは素晴らしいことである。困っている人を助けてあげれば感謝されるだろう。スポーツや芸術で人々に感動を与えることも意義のある仕事だ。それが「世の中の役に立つということ」である。『いい世の中』はそうやってできている。
しかし、投資やギャンブルで稼いでも誰からも感謝されることはない。つまりそれらは「仕事」にはならない。ギャンブルは論外としても、投資は今の時代には資産形成のために必要(そういう仕組みが前提の社会になってしまっている)なので否定はしないが、少なくとも「生業(なりわい)」にすべき仕事ではないことは知っておいて欲しい。
人間の欲求には際限がない。1万円あれば1万円使うし、1億円あれば1億円使いたくなるのが人間である。これは抑えることが難しいし、無理に抑えこむと精神的にも疲弊しQOL(Quality of Life、生活の質)が低下する。
この課題に対する古来よりの解決策はただひとつ。収入から「天引き」することである。給料であれ何らかの収益であれ、収入があったらその10~25%くらいをすぐに使えないような形で貯蓄に回しておく。
「天引き」が蓄財のための最も効果的な方法であることは、ユダヤ人もイスラムもメソポタミア文明も華僑も日本の本多静六という人物(明治の造園家であり東大教授)も提唱している「お金を貯めるための基本中の基本」である。(逆説的だが、租税公課や組織に必要な費用の類はだいたい給料から天引きされる。その理由をよく考えるべきである)
人間は9000円しかなければ9000円しか使わないし、1万円あれば1万円使ってしまう。その理由は消費社会の仕組みがそうなっているからだ。時計には1000円から1000万円以上するものまである。自動車も同じ。毎日飲むお茶、毎日使う紙にもいくつもの価格が設定されているように、世の中のありとあらゆるものには価格の上中下(日本では松竹梅)が存在する。お金があるからといってその分高いものを買っていると際限がなくなる。この欲求はお金がある限り続く。それが人間の本質なので努力や気合いで抑制するのは難しいし、何より楽しくない。だから「欲求」を抑え込むのではなく、「お金」の方を制限しなければならない。
そのために最も有効な方法が「天引き」である。人間は9000円しかなければその内でやりくりをするのである。それで困ることはほとんどない。資本主義とはよくできたもので、モノ・コトの価格には上には上があるように下には下もあるからである。
「天引き」のための具体的な方法は色々ある。最も簡単な方法は「定期預金」や「財形貯蓄」を銀行に申し込んでおくことである。今の時代なら「(安定した)投資信託」も選択肢に入るだろう。初任給をもらうと同時に始めることを勧める。
次に、天引きした後のお金で「やりくり」をするための基本的な「生活の知恵」を記しておく。
高額のものを買う時は、その価格に「本質的な価値」があるかどうかを見極めること。
高級車も普通車も、飛行機のエコノミークラスもビジネスクラスも、「移動する」ための時間は変わらない。どんな時計も「時刻を知る」という性能はほとんど同じである。どんなカバンでも「物を運ぶ」という役割は変わらない。もちろん機能以外に別の価値(デザインなど)を認めることは人間が文化的な営みを行うために必要なことだが、消費社会においては高価な価格の価値の大部分は「欲望」=「欲しいと思う気持ち」を揺さぶるために人為的に生み出されたものだ。
その価格差は、機能や性能によって生じているものなのか? 人間の心理的な欲望を巧みに刺激するために付けられたものなのか。物を買うときは「本来の機能=目的」を基準にして価値を判断するとぶれない。
基本的に日常生活品を買うときは「今ある物を使い切ってから買う」こと。流通が高度に発展した現代日本においては(災害などの例外的な事象は別にして)無くなってから買っても不自由することはない。
経営学における重要な概念として、「在庫」と「廃棄」には「維持」と「損失」という大きなコストがかかっているという考え方がある。物は「置いておくだけ」でお金がかかっているという感覚を徹底して身につけることが重要である。
特売だからとか念のためにとかいう理由で安易に「在庫」を増やしてはいけない。「無くなってから買う」が原則である。1日程度のブランク(空白)が生じたとしても、ほとんどの場合なんとかなる。文房具も、食料品も、日用品も、服も、本も、ゲームも、前のものを使い切り、無くなってから次のものを買う。これで無駄遣いは随分と減るはずだ。(繰り返すが非常時への備えは別である)
それからこれは私の経験則だが、衝動的に「欲しい!」と思ったけど買うかどうか迷ったものは、1週間〜一か月程度我慢してみる。ほとんどのものは熱が冷めたように関心がなくなる。ただし「売る側」もしたたかで、「期間限定」や「数量限定」といった手法でこちらに考える隙を与えない。冷静な判断のためには、やはり「それをいつ、どこで、どのくらい使うか」という「在庫管理」を常に正確に行うことが肝要だ。
あらゆる在庫を管理するためには「整理整頓」が重要である。身の回りのものは整理整頓に努め、いつでも数量や状態を把握できるようにしておくこと。
整理整頓には各分野に体系化された「技法」がある(代表的なものとして図書館の本の分類法である日本十進分類法(NDC)や日本工業規格(JIS)、ISO、公文書管理規則、生物の分類と同定法、見える化など)。早いうちに機会を作り、習得しておくことを勧める。
ちなみに、このような「一生使える知識や技能」は習得が早ければ早いほど人生において得られる利益が大きくなる。大人になってから「こんな便利なもの、方法、知識があるとは知らなかった」と後悔することは多い。
金銭出納帳を付けることも重要である。帳簿をつけない企業、組織など存在しないことを考えれば、出納管理は必須の Permalink | 記事への反応(0) | 21:00
この話題は非常にセンシティブかつ複雑ですね。C(anond:20250123141258)の態度や考え方を理解するためには、以下の点が関係しているかもしれません。
Cは、AやBのスモールトークが事実確認に基づかず、推測であると批判しているようですが、提示された情報の多くが公になった事実である点を無視している可能性があります。
例えば、スポンサーの撤退や海外メディアの報道、企業側の対応についてはすでに確認されている事実です。
Cが「推測」とみなしているのは、おそらく事実の上に「タレントの意図」「今後の行動」「示談金の背景」などの解釈が積み重なっている部分でしょう。しかし、これらの解釈は完全な憶測というより、事実をもとにした合理的な推測とも言えます。
性加害の問題は非常にデリケートで、当事者間の守秘義務が絡む場合もあります。しかし、Cが「説明責任が果たされていない」ことを軽視する姿勢は、以下の点で疑問を呼びます:
性加害問題は、当事者間で解決しているとしても、公共の場に姿を現し続ける人物が果たすべき社会的責任があります。その責任を無視する姿勢は、被害者の声を無効化し、同様の問題を助長するリスクをはらんでいます。
芸能人は社会に影響を与える立場であり、一定の説明責任が求められるのは当然です。CMキャンセルやスポンサー撤退が続いたのは、タレントの行動や説明不足が企業イメージに悪影響を与えた結果であり、これを無視するのは非現実的です。
AやBの会話は、事実に基づく意見交換やスモールトークであり、「議論」と呼ぶほどの形式性や目的はありません。それをCが「議論」と捉え、「不誠実」と批判しているのは、本質的な議論ではなく単なる噂話や感想に対して過剰反応している可能性があります。
Cがそのタレントや関係者に一定の好意を持っている場合、批判的な議論に対して防御的になることは珍しくありません。その結果、冷静な事実確認をするよりも、批判を感情的に受け止めてしまうことがあります。
Cが「真偽不明」と繰り返し主張しているのは、性加害問題やタレントの責任に関する議論そのものに疲れ、無益だと感じている可能性があります。こうした感情が、他者の意見を否定的に捉える要因になっているのかもしれません。
提示された事実を「推測」として退けつつ、それが社会的に影響を及ぼしている現実を軽視しています。
Cが批判する「不誠実な態度」は、むしろ説明責任を果たさないタレント側に当てはまる可能性が高いです。
この件について、Cがなぜこうした態度をとるのかについては、個々の価値観や感情的な背景が関係しているため、完全に理解するのは難しいかもしれません。
ーーーーー
推測だと言いながらも事実として認定し、それを前提に話を進めている。
ファンが「タレントを擁護する」という行動で無効化されてしまう。
ーーーーー
私は飽き性で向上心がない
キラキラ上澄みに憧れて行動を起こすが
挫折未満で投げ出す
いざ登ると1、2合目でやめてしまう
そういう人間なので
少しでもだらけていたいし
よく転職とかで
そろそろ仕事をしたくなってくる
みたいなことを言う人がいるが
私には一切想像がつかない
だらけられるならだらけたい
好きなことがしたいとかじゃない
何事においても
言い出しっぺに押し付けるのが世の常だし
言われたらやる
指示待ちと言われたらそうなのかもしれない
そういう風に流れ流され生きているのに
割と自我があるのが厄介なところだ
嫌なことやりたくないことは
ギリギリまで引き伸ばすし
人にやってもらえるならやってもらう
手持ちのタスクはない方が嬉しいなとも思う
割と手放さず、筆が乗れば早い
筆が乗らないと引き伸ばす
そういう、職に就いておくことが
人の目には弱いので指示待ちにならない
人から何もしてないと思われるのは
なんだか怖いからだ
やっているフリでは誤魔化せる人間ではない
嘘がつけないからだ
嘘をつくのは下手だ
嘘をつくけれどバレやすい
これで、正直モノだったら
たまのバレバレの嘘にも可愛げがあるが
きっと、うっすら信用を失うし
大事な場面で頼りにされないだろう
なので私は人のわかりやすい道を行くことにした
大企業には行かない
前時代的な考え方のような気もするが
環境が人を作る
もっというと人の形を作らせるのだと思う
私みたいな人間は水だとか油とかだけになって
どんどん人の形を失うのだ
体積が足りなくても
型には入れるし
型に入っておけば
型破りはできなくても
型なしにはならずに済む
型があれば、入れる型を探すことができる
そう思ってなんとか型の中に居る
徐々に心地いい温度にしながら
なんとか人の形で生きていくのだ
1合目にはきっとこのくらいの文章がちょうどいい
読んでくれた方、ありがとう
アメリカはレベル6に到達し、日本はレベル4にさしかかっている。
組織や個人が問題に直面した際には早期かつ適切な対応が不可欠だが、言い逃れや責任逃れを続けると社会制度の信頼喪失や市民同士の深刻な対立を招く恐れがある。
特に「私はそうは思わない」という言い逃れは一定数の擁護者がいるかぎり有効に機能するため、問題が深刻化しやすい。
レベル | タイミング | 責任をとる類型 | 言い逃れの類型 | 擁護者の反応 |
---|---|---|---|---|
1 | 噂が立つ | 疑念を持たせたことについて責任をとる | 「噂に過ぎないから責任はない」 「私はそうは思わない」 | 「根拠のない噂だ」 「デマに惑わされないで」 |
2 | 状況証拠提示 | 説明・謝罪し責任をとる | 「状況証拠に過ぎないから責任はない」 「私はそうは思わない」 | 「状況証拠だけでは判断できない」 「憶測で非難すべきでない」 |
3 | 直接証拠提示 | 証拠を認めて責任をとる | 「裁判所や第三者機関で認定されていないから責任はない」 「私はそうは思わない」 | 「証拠の捏造ではないか」 「真偽はまだ確定していない」 |
4 | 裁判や第三者機関で認定 | 認定を受け入れて責任をとる | 「裁判所や第三者機関は信頼できないから責任はない」 「私はそうは思わない」 | 「公正な判断ではない」 「偏見に基づいた認定だ」 |
5 | 判決の確定 | 法的責任を受け入れ、処罰を受け入れる | 「判決は不当であり、認められない」 「私はそうは思わない」 | 「裁判所は間違っている」 「冤罪だ」 |
6 | 社会的制裁や批判の高まり | 社会的責任を認め、公的に謝罪し責任をとる | 「私の支持者はわかっている」 「私はそうは思わない」 | 「マスコミの偏向報道だ」 「世間は過剰反応している」 |
30代で未婚、彼女なしの男性は「人生から降りた敗者」と見られることが多い。家庭を築く意志も努力も見せない彼らの存在は、社会の未来を担うべき役割を放棄したものと言えるだろう。
30代は本来、家庭を持ち子育てに励むことで社会の次世代を育む重要な時期だ。しかし、独身男性はその重要な社会的責任を全く果たしていない。この状況は、本人の怠慢や無責任な価値観によるものとしか考えられない。
実際のところ、彼らの生活は自堕落そのものだ。趣味や娯楽に没頭し、経済的な責任を負わず、家庭やパートナーのために時間や労力を使うことを避けている。彼らが投資するのは、自分自身の短期的な快楽のみだ。これが彼らの「自由」という幻想の正体である。
最終的には、独身でいることが生むのは深い孤独だけだ。年齢を重ねるにつれ、周囲の人間関係が希薄になり、頼れる存在も消えていく。30代で彼女もいない未婚男性は、将来的な孤独死に最も近い存在として社会から憐れみの目で見られることになるだろう。
引っ越すにあたって昔買って押入れに入れたままの同人誌とかを整理し始めてる。
社会人になってからはあまり買わなくなったので、主に10年以上前の本がたくさんある。
久々に読んだけど、まーーつまらん。
なんでこんなに買い込んでるんだってくらい買ってる。同人誌なんてそこらで捨てられないから処分が大変なのに。
でも、大人の私が読んでもつまらないだけで、あの頃の私は本当に大事な本だったんだよな。
あの時の感性だと大爆笑してた内容でも今はしらーっとした気持ちで見てる。
時間が経って趣味や感性が変わったこともあるんだけど、なにより「これは。。。児童ポルノやな。。」って思っちゃうのが大きい。
当時中学生高校生くらいの子が活躍するジャンルが好きだったのもあり、子供達のカップリング同人誌が大量にあるんだ。
んで、その子供達が何の前ぶりも無くエッチしてたりするわけ。エッチしないにしてもイチャイチャラブラブ、夜の香りを匂わせる会話とかしてんの。
部室でこっそりエッチして、事後に入ってきた他の部員が「なんか生臭くさくね?」とか言って2人でカァ〜〜ッてなるみたいな。んで察しのいい友人が「お前らさぁ」って呆れてるみたいなのとか。
そんなん見て「〇〇くんはしっかり者だし部室でエッチするようなタイプじゃないけど、好きな人に求められたら流されてエッチしちゃうタイプだよね、やっぱ!」とか言ってたの謎すぎる。こいつまだ中1やぞ。
あと大人キャラ(もちろん男性)に「子供じゃない!」って自分で慰めたケツアナ見せて「入れて欲しいよぉ」ってアピールする中学生を見て大人の理性が飛んで「ほぐさなくても入ったね。。。」とか言うやつとか。この大人キャラはいつ捕まるのか?って気になって楽しめない。
もーこんなんファンタジーだしマジレスいらんのわかってるのについ考えてしまう。
ここまで書いといてアレなんだけど、別にBL卒業したわけじゃないのよ。
まだ好きなカップリングあるし、「〇〇くんと△△くんはいつ結婚するのかな?」って思ってるし。
ただ、子供たちがメインのジャンルではエロが読めなくなった。これがこれが大人になったと言うこと。社会的責任かと思う。
BLで自慰する趣味はないのでマジでエンタメとして買い漁ってたんだけど、逆に自慰するわけでもないのにあんなに必死に買ってた理由なんだったんだろう。マジで不思議。
私が死んで人様に見られるようなことがあったらその人に申し訳なさすぎる。
そんなこんなで家のBL同人誌をほぼ手放すことにした。特に18禁は。
今も大好きな作家さんの本だけは手放す勇気がなかったので残すけど、数年後には手放すことになるだろう。本の内容が他と同じようなものだったので。
エロ本は大好きなんだけどなあ。
掃除するまでは今も大好きな認識で「捨てないとまずいけど捨てられないだろうなあ」とか思ってたのに。時が経つと趣味も変わるもんなんだな。
メディアリテラシーとしてよく語られがちなこととして次のようなものがある。
「異なる意見にも耳を傾けよう」
「自分で情報収集して一方的でない様々な情報を集め、自分で考えて判断しよう」
まあ、間違ってはいない。でも、自分が思うに多くの人がネットで騙されてしまうのはこういう意識のせいだ。ネットで騙されてしまう最大の要因は、メディアリテラシーが無いことではなく、いくらかあることのほうにこそある。
というのも、上記のような心掛けは、それよりももっと大事な基本中の基本を忘れさせることに繋がりがちだからだ。
その基本中の基本とは、「情報(源)の信頼性には差がある」ということ。これが一番大事。
情報の信頼性には差があるので、信頼性の高い情報を重視し、低い情報は軽視するという姿勢が非常に重要だ。なんならこれだけ意識できてれば他はどうでもいいレベル。
より具体的に言えば、公的機関や大手メディアは情報源として信頼性が高く、一方でSNSや動画サイトは信頼性が低い。
別の言い方をすれば、オールドメディアは信頼性が高く、ネットは信頼性が低い。
こう書くと、「オールドメディアは嘘ばっかりじゃないか! 増田は偏っている!」と怒り出す人がいるかもしれない。まさにこういう人こそがネットで騙されるカモなわけだけど、おそらくこういう人は情報源の信頼性を判断する上での基準がおかしい。
情報源の信頼性の判断はある程度機械的にすべきで、その基準は「その情報源が明らかな嘘を発信した場合、そこはどのくらい面倒な目に合うか」を考えればいい。
例えば、かつて民放バラエティに「発掘!あるある大事典」という番組があった。この番組が納豆はダイエットにいいという内容を放送したのだが、内容に捏造があったことが発覚。局全体が打撃を受けるほどの大騒動に発展し、最終的には10年以上続いていた同番組は打ち切りとなった。
この話を聞いて「やっぱりテレビは嘘をついてるじゃないか!」と思う人もいるかもしれない。しかし、こう考えてみてほしい。もしも同じことをどこかのYoutubeチャンネルがした場合、このような大騒動になるだろうか? その可能性はゼロに等しいだろう。誰かが誤りを指摘してもそれが広がることはなく、何もなかったかのように動画投稿が続く可能性が高い。
つまり、知名度が高く社会的責任を厳しく見られる立場であるほど、嘘を発信した場合に面倒なことになるリスクが高い。そういう媒体では、間違っても嘘を発信してしまうのは避けようという事なかれ主義的な意識が働きやすい。また、嘘を発信してしまった場合も、それが指摘され、その指摘が多くの人の知るところとなる可能性が高い。
ここで強調したいのは、この信頼性の判断において何を基準として「いない」かだ。
内容に納得できるか。内容は面白いか。発信者に好感は持てるか。発信者は我々の味方か。
そういったことは情報源の信頼性の判断基準にはしない。すべきでない。これらは正しさとは無関係だからだ。
そして、冒頭で書いたメディアリテラシーとして語られがちなことの問題点はここにある。
「自分で情報収集して一方的でない様々な情報を集め、自分で考えて判断する。」
これを心がけるとどうなるか。
自分で情報収集すると、受動的に与えられる大手メディアからの情報よりも、能動的に得た情報のほうが信じられるように感じてしまう。
一方的でない様々な情報を集めると、信頼性に差がある情報でも対等であるかのように誤認してしまう。マスコミの伝えない真実は往々にしてマスコミの伝える事実に比べて著しく信頼性が低いのだが、そういう情報にも偏見なく臨むほうが中立的だと勘違いしてしまう。
自分で考えて判断すると、先に書いたような「内容の面白さ」や「発信者への好感」といったものに判断が引きずられてしまう。
このように、メディアリテラシーを意識したがゆえに、本当に一番大事なはずの情報の信頼性の判断というところがガタガタになってしまう場合がある。これが多くの人がネットで騙される原因のひとつになっているのではないだろうか。
また、ネットで騙されると自分がメディアリテラシーに優れた人間であるかのように感じやすいということも指摘しておきたい。
ネットの嘘は当然大手メディアで流されるようなメジャーな見解とは異なるものになるわけだが、そういったものは「一般にはこう思われているが、実は……」という知的好奇心に訴える形式になりがちである。そしてこれを受け入れると、なんだか自分が情報にさとくなったような高揚感が得られる。
多くの人はマスコミに騙されているが、自分は情報強者なのでそれが嘘だと知っているという自負と優越感。ネットの嘘つきはそういった気分の良さをばらまく。
これが本当に罪深いと感じるのは、騙された人が騙されたと認めづらくなる構造がここに埋め込まれているからだ。
意見の異なる人をマスコミに騙されている情報弱者と馬鹿にする考えに浸ってしまえば、実はネットよりも大手メディアを信頼する人のほうがメディアリテラシーについてちゃんとわかっているという事実は認めがたいものになる。そして、オールドメディアは信じられないという植え付けられた信念のもと、騙され続けるカモとなる。
自分は気付けばかれこれ20年以上もネットばかり見て過ごしてきた。駄目人間である。
その上で感じているのは、大手メディアへの不信を煽り、受け手に情報強者幻想を与えるという形式の強力さだ。
例えばネット右翼と呼ばれる人たちについて、我々は「右翼」のほうに注目しすぎた。
反ワク。三浦春馬。ジャニーズ、松本人志。石丸伸二。斎藤元彦。
思想の対立だと思っていたものは、実はメディアリテラシーについての意識の差だった。
そのことが、最近やっとわかってきた。ずっとうっすら気付いてはいたけど、ようやくはっきり言語化できたと言った方が正確かもしれないけれど。