『わからない者達は自身の観念の範囲内によってしか判断できず、また、理解しようとする前に、身の前の事象に忙しくなる。よくわからない他者よりも〈私〉が優先だからだ。』

あるヨギの日記より


以前も書きましたが

私達は過去を生きてるのですね


私の目の前に私が大事にしている万年筆があります。


もし、私の中に観念や概念、言葉や知識が存在しないなら、これ(万年筆)はなんでしょう?


私はこれがなんだかわかりませんよね?

ただこれが在る。


そこに万年筆という意味があるということを考えれば、これは万年筆となりますね?


それって「過去」ですよね?

過去の知識です。


これ、全てそうですよね


そして、私がその過去(万年筆)を見た途端に万年筆と私という分離が生まれる。


この万年筆には意味があります。「私の」「大切な」「イタリア製の」「高価な」「前の彼女からもらった」それら全て含めて「過去と観念」ですよね。


もし、この万年筆を愛犬が私のいない時に食べれると思いかじってボロボロにしたら私は悲しみに打ち砕かれるかもしれません。


想像してみてください

それが何がわからない場合、私はただこれと共に在るじゃないですかね?


そこに分離はありますかね


今ここしか存在しない

今ここに意味はなく

今ここには分離は存在しなくないですかね


これ、全てです

目の前のテレビ、ソファー、テーブル、コップ、時計、エアコン、ストーブ、、、


もし、これらが何かわからないとすれば、分離は起きないのですね


万年筆を愛犬に粉々にされて悲しむということもないわけですね


ひとつの行法ですがね

やってくるものをただ鑑賞し、去るものも鑑賞だけする。


そして、例えば仕事や家の作業や雑用にのみ集中すればいいです。「心を込めて、丁寧に」ですね


中々難しいです。

常に何かに思考(心)を取られます


けどね、それがすこしづつでも出来れば、そのものの真の素晴らしさや美しさが観えたりしてくるのです。

今ここに在る全ての美しさがです。


ポチッとお願い申し上げます。

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